第一次安倍内閣の失墜
前節で平成20(2008)年のG8サミットの会場として洞爺湖が選ばれたのは、国際テロへの強い警戒からであると指摘したが、当時の政権には、日本で開催されるこのサミットに対して低迷する支持率の浮上のきっかけにしたいとの強い思いがあった。
平成18(2006)年9月、徹底した改革路線で高い人気を誇った小泉純一郎首相が自民党総裁の任期満了により退任すると、小泉内閣で官房長官を務めていた安倍晋三氏が総裁選を勝ち抜き、第90代内閣総理大臣となった。52歳の首相は戦後最年少で、内閣支持率68%①と国民から高い支持を得た。
しかし、小泉内閣の郵政民営化改革に反対したことで除名された11名の無所属議員を復党させたことで改革派のイメージを損ない支持率は急落する。5月には談合疑惑が取りだたされていた松岡利勝農林水産大臣が議員宿舎で自殺するという衝撃的な事件が起こる。跡を継いだ赤城徳彦氏もさまざまな疑惑から就任わずか2カ月で辞任。「辞任ドミノ」という現象は安倍首相の指導力への疑念を高めた。
こうして迎えた平成19(2007)年7月29日の第21回参議院選挙で自民党は改選議席64を37に減らす大敗で、民主党が全体で109議席を確保し、自民党と公明党の合計103を単独で上回った。安倍内閣は参議院の主導権を民主党に奪われたのである。
苦しい政権運営が続く中で安倍首相は持病の潰瘍性大腸炎が悪化し、9月12日に辞任を表明した。9月25日に福田康夫元官房長官が内閣総理大臣になる。翌年7月の洞爺湖サミットは福田首相が議長を務めることになるのだが、参院第一党の民主党は対決姿勢を強め、福田内閣は前政権にも増して厳しい政権運営を強いられた。
①内閣支持率を追う 日経世論調査 全データhttps://vdata.nikkei.com/newsgraphics/cabinet-approval-rating/
国連先住民族宣言の批准
平成20(2008)年4月には支持率29%①と低迷した福田内閣にとって洞爺湖サミットは、政権浮揚の最大の好機であり、成功が絶対視された。そしてサミットが近づくにつれ「アイヌ先住民族問題」が大きな政治課題として浮上するのである。
この問題が注目を集めた直接のきっかけは平成19(2007)年9月13日、ニューヨークの国連本部で開かれた第61期総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(以下「国連先住民族宣言」)が、日本も含む賛成143、反対4、棄権11の大差で採択されたことである。
国連先住民族宣言の採択によってアイヌ民族の存在感が高まったのは、このサミットに潘基文(パン・ギムン)国連事務総長が参加することになっていたからに他ならない。潘事務総長は宣言採択を受けて「大きな勝利。苦しい歴史を経た国連加盟国と先住民族の関係が和解した歴史的瞬間だ」とのコメントを発した②。日本にはホスト国として国連宣言にふさわしい内実が求められるのは言うまでもない。サミットの場で日本が潘事務総長から苦言を呈されるようなことがあってはならないのである。
なお、この宣言の採択は現地時間で13日午後4〜5時と見られるが、日本時間では14日午前5〜6時となる。安倍首相は12日午後に退陣表明を終えると、翌日慶応大学病院に入院した。病院は「非常に衰弱している。日常生活に支障はないが、緊張状態を続けるのは難しい」と記者に語った③。安倍首相が次に姿を見せるのは9月24日、病院内での記者会見だった④。条約批准の最終決裁に安倍首相がどこまで関与したかは不明である。
この後、平成20(2008)年6月6日の衆参両院による「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」、そしてサミットを一週間後に控えた7月1日の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」の開催発表と関連ニュースが続く。全道の全ての小中学生に配布されている副読本『アイヌ民族:歴史と現在』の初版の発行もサミットの4か月前の平成20(2008)年3月。これらの詳細は項を改めるが、我が国の先住民族政策、アイヌ政策は今日まで国連を影のプレイヤーとして進んでいくのである。
①内閣支持率を追う 日経世論調査 全データhttps://vdata.nikkei.com/newsgraphics/cabinet-approval-rating/
②2007/09/14 (金) 北海道新聞夕刊全道
③2007/09/14 (金) 北海道新聞朝刊全道
④2007/09/25 (火) 北海道新聞朝刊全道
ILO第169号条約改定作業に参加
アイヌ民族が、国連と関わるようになったのは昭和62(1987)年8月にさかのぼる。ジュネーブで開かれた国際労働機関(ILO)に設置された「先住民族に関する作業部会」に初めて参加した①③。
ILOは、スイスのジュネーブに本部を持つ国連専門機関の一つで、労働条件の改善により世界平和を目指す国際組織である。先住民族は植民地支配の中で過酷な労働を強いられることが多いことから、先住民族問題に1920年代から取り組んできた。このILOが1957年に成立させたのが「独立国における土民並びに他の種族民及び半種族民の保護及び同化に関する条約」(ILO第107号条約)である①④。
なお日本政府は、敗戦により海外領土を失った結果、本土領域には非自立的先住民が存在しないとの理由で条約の適用外を主張し批准しなかった。①③
同条約は、その名前が示すように先住少数民族を近代社会に適応させることで保護を図ろうとするものであり、世界的な先住民族復興運動の高まりとともにこの条約を改定しようとする機運が生まれた。ILOは1985年に第107号条約の改定に向けた作業を開始し、これが1989年のILO総会で採択されて「ILO第169号条約」となったのである③④⑤。
社団法人ウタリ協会理事長の野村義一氏を初めとするアイヌ代表団が初めて参加したのは1987年8月の第5回作業部会からであった①。作業部会は日本政府に対して調査資料を送付したが、前述の立場から回答を留保した。条約改定に冷淡な日本政府だったが、アイヌ民族代表団が出席するようになるとすぐに労働省・外務省の職員を送るようになったという②③。
この後、アイヌ民族の代表は国連の先住民族に関連する会議に欠かさず出席するようになり、国連の先住民族コミュニティの中で存在感を高めていった。
このことが1992年12月10日、ニューヨークの国連総会で行われた翌月から始まる「国際先住民年」の開幕式典での野村義一理事長の記念演説に繋がるのだが、そのことを語る前にアイヌ民族と国連を繋いだNGO「市民外交センター」に触れておく。
①『アイヌ史 北海道アイヌ協会 北海道ウタリ協会 活動史編』社団法人北海道ウタリ協会1994
②北海道ウタリ協会『先駆者の集い第39号』1989-3-31
③手島武雄『国連における先住民族運動と日本政府の対アイヌ民像政策』平和研究・日本平和学会・1988
④マヌエラ・トメイ、リー・スウェプストン著『先住民族の権利ーILO第169号条約の手引き』論創社・2002
⑤中野育男『ILO169号条約と国内立法の動向』専修商学論集・2020-01-20
⑥上村英明・木村真希子・塩原良和『先住民族と歩んだ30年』法政大学出版局・2013
⑦野村義一『アイヌ民族を生きる』草風館・1996⑧竹内渉『野村義一と北海道ウタリ協会』草風館・2004
⑨竹内渉『戦後アイヌ民族活動史』解放出版社・2020
市民外交センター
野村義一氏は自著『アイヌ民族を生きる』(草風館1996)でこう書いている。
国連には『差別防止および少数者保護小委員会』の作業部会で『国連先住民会議」という世界の民族が集まって、自分のところの政府はこんなことをやっているよ、いま政府にこういうことを要求しているよ、我々は民族としてこういうことをやりたいという自由に意見をいい合いのできる会議があるんですが、その国連の会議に初めていったんです。
先住民会議は第5回目で、5日間にわたって行われました。これは市民外交センターのかたが、いってはどうかといってくれて、いくことになったんです。市民外交センターの手島さんという、英語が自由に話せ、アメリカ先住民の問題について非常に関心が深く、国連にも出席したことがある方の渡欧の費用も出してくれ、この手島さんが我々の通訳についてくれました①
市民外交センターは、新しいタイプの市民運動を掲げて昭和57(1982)年3月に東京都新宿区に設立された市民団体である。設立者の上村秀明氏は、昭和31(1956)年熊本県生まれで、慶応義塾大学から早稲田大学大学院に進んだ。上村氏は令和6(2024)年の選挙でれいわ新選組から衆議院議員に当選するが、これによって辞任するまで40年以上にわたって同団体の代表であった①。
センターの設立当初は、国連軍縮総会に関連した核軍縮の活動や南太平洋の非核化を支援するための活動を行っていた。反戦反核寄りの活動団体であったが、南洋で現地の少数民族、先住民族と関わるうちに国連やこれらの支援団体とのつながりも生まれた①。
創設者の上村秀明氏は、朝日新聞の花形記者であった本多勝一氏の愛読者で、本多氏の著作から北海道やアイヌ民族に興味を持ったという。昭和61(1986)年9月に中曽根康弘首相が「日本は単一民族」と発言したことは、アイヌ民族の激しい怒りを誘い、東京で抗議活動が行われたが、上村氏はここに運動の転機を見出したと回想している①。
北海道旧土人保護法に代わってアイヌ新法をつくるべきだという運動が1984年から始まっていたこともあって、国内では抗議運動がアイヌ民族から盛り上がっていました。それをどう展開していくのかというところに、市民外交センターの運動の可能性があったわけです。①
野村理事長の回想に出てくる手島武雅氏は、後に九州女子大学教授になる北米先住民族の研究者で、ワシントン大学留学中にILO先住民族作業部会に参加していた。昭和60(1985)年の帰国時に上村氏に会った手島氏は、「なぜアイヌ民族は国連の作業部会に代表を送らないのか」と嘆いたという①③。
上村氏は、昭和61(1986)年11月に中曽根発言への抗議のために上京していた野村理事長に面会を求めて、翻訳を含む資料作成や通訳等の無償サポートを条件にILOの作業部会への出席を強く勧めた。こうして市民外交センターの強力なサポートにより、野村理事長を含む3人のアイヌ民族代表が第5回作業部会に出席することになったのである①③。
この後もアイヌ民族代表は継続的に作業部会に出席する。そこにはいつも市民外交センターの手厚いサポートがあった。
①上村英明・木村真希子・塩原良和『先住民族と歩んだ30年』法政大学出版局・2013
②野村義一『アイヌ民族を生きる』草風館・1996
③竹内渉『野村義一と北海道ウタリ協会』草風館・2004
④竹内渉『戦後アイヌ民族活動史』解放出版社・2020