国連とアイヌ民族復興④

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野村理事長の国連演説

平成4(1992)年12月10日、翌年の国連「国際先住民年」の開幕式典として、世界の先住民族の代表18人・2団体がニューヨークの国連本部で演説を行った①。アイヌ民族の野村義一理事長は11番目に登壇する。その演説内容の前半であるアイヌ民族が置かれた現状と歴史認識については、前回に紹介した「アイヌ新法案前文」と重なるので、ここでは世界に向けたアピールである最終段を引用する。

アイヌ民族は、今日国連で議論されているあらゆる先住民族の権利を、話し合いを通して日本政府に要求するつもりでおります。

これには、「民族自決権」の要求が含まれています。しかしながら、私たち先住民族がおこなおうとする「民族自決権」の要求は、国家が懸念する「国民的統一」と「領土の保全」を脅かすものでは決してありません。私たちの要求する高度な自治は、私たちの伝統社会が培ってきた「自然との共存および話し合いによる平和」を基本原則とするものであります。

これは、既存の国家と同じものを作ってこれに対決しようとするものではなく、私たち独自の価値によって、民族の尊厳に満ちた社会を維持発展させ、諸民族の共存を実現しようとするものであります。

アイヌ語で大地のことを「ウレシパモシリ」とよぶことがあります。これは、「万物が互いに互いを育てあう大地」という意味です。冷戦が終わり、新しい国際秩序が模索されている時代に、先住民族と非先住民族の間の「新しいパートナーシップ」は、時代の要請に応え、国際社会に大いに貢献することでしょう。

この人類の希望に満ちた未来をより一層豊かにすることこそ私たち先住民族の願いであることを申し上げて、私の演説を終わりたいと思います。

イヤイライケレ。ありがとうございました。②

このようにアイヌ民族の要求は、国内問題の枠組みを突き破り、日本政府と対等な立場を求める民族主義的な要求へと変わった。

①北海道ウタリ協会機関誌『先駆者の集い』(第58号)平成5年3月29日
②北海道ウタリ協会アイヌ史編集委員会『アイヌ史 北海道ウタリ協会アイヌ史編集委員会編』1991

民族先住権


野村理事長の国連演説に先立つ平成4(1992)年6月と10月、政府の「アイヌ新法問題検討委員会」は初めてウタリ協会に対して意見聴取を行っている①が、その内容と12月の野村国連演説を合わせると、アイヌ民族が日本政府に求めていた「民族自決権」の内容が具体的になる。

●検討委員会 先住民族としての「権利」とは、具体的にどのような権利か?

◎協会 先住民族について「権利」については、現在国連の「先住民族に関する作業部会」で検討されている「先住民族の権利宣言」の案文に取り上げられている次のような権利や自由などの内容と考えていること。
①信仰、言語、教育などに関すること、②漁業、採集、農業などに関すること、③環境保護に関すること、④土地や天然資源に関すること、⑤参政権、自決権に関すること。

○「土地」について
アイヌ民族は、北海道などの先住民族であることは歴史的事実である。利用してきた土地を日本国は現に居住するアイヌに全く相談等することなく、「無主」の土地と決めつけ、一方的に官有地として不法に奪ったものであること(中略)したがって、土地については本来はアイヌ民族のものであり、誰にも侵すことのできないアイヌ民族の固有の権利があること。

○「参政権」「自決権」について
国政や地方政治の場でアイヌ民族の諸要求を正しく確実に反映できるよう、国会や地方議会にアイヌ民族代表の議席が確保されることが必要である。
民族としての権利や尊厳を守るための自治権があり、政治的、経済的、社会的な決断を自ら下す権利を当然に有しているものであること。

アイヌ民族は、先祖代々から受け継いだ土地に住みながら、後から来た和人たちにそれを支配されているが、その中にあって民族としての権利や尊厳を守るための自治権があり、政治的、経済的、社会的な決断を自ら下す権利を当然に有しているものであること。①

①北海道ウタリ協会機関誌『先駆者の集い』(第60号)平成5年10月1日 

ダイス議長の招聘

民族固有の土地と立場が一方的に奪われたことから来る「土地の権利」「自治権」「参政権」を含む強い主張は、昭和59(1984)年5月のウタリ協会による「アイヌ民族に関する法律案」(アイヌ新法案)には見られなかったものである。ここには、昭和63(1988)年の第6回以降欠かさず代表を送っていた国連の先住民族作業部会(WGIP)での議論が反映されていた。

国連の先住民族作業部会は、平成元(1989)年のILO169号条約(日本未批准)を成果としてもたらしたが、条約制定後も年一度のペースで協議は続き、ILO169号条約をどのように具体化するかという議論に入っていった。こうした中で、平成19(2007)年に実現する「先住民族の権利宣言」に向け、先住民族の自決権、土地や資源の権利についての議論が深化していった。①

平成3(1991)年5月に国連先住民族作業部会のエリカ・イーレス・ダイス議長を招聘したことは大きかった。ダイス議長は5月19日から31日まで北海道に滞在してアイヌ民族と交流を深めたことで、ジュネーブでアイヌ民族国連代表が感じた実感を全アイヌ民族に広げることとなったのである②。このダイス議長はウタリ協会機関誌『先駆者の集い 57号』に次のようなメッセージを寄せている。

アイヌ民族は先住民族である」と私は声を大にして申し上げたい。ですからアイヌ民族は先住民族としてのあらゆる権利を有するものである。そして先住民族としてあらゆる保護を受ける権利を有するものである。これが私の第一のメッセージです。

第二のメッセージは「平等・無差別」。ということは、調和のある幸せな社会を築く上で避けることのできない基礎であります。お互いが敬意を払い、お互いに平等の権利を認め合い、ぜひとも幸せな社会を築きましょう。②

ダイス議長が宣言するように、アイヌ民族が先住民族であることは、土地や資源の権利、参政権や自治権など先住民族固有の諸権利をアイヌ民族が持つのと同義となった。

①手島武雅「先住民に関する国連作業部会」の動向と日本への意味合い」2006・松井一博『アイヌ民族の権利と国際環境政策の展開 – 先住民族 の文化権の保障から』2006等 ②北海道ウタリ協会機関誌『先駆者の集い』(第57号)平成4年3月1日 

中央陳情

平成5(1993)年5月21日に開かれたウタリ協会の総会で、野村義一理事長は、「今年は国際先住民年であり、この記念すべき年にアイヌ新法制定に目鼻をつけたい」と挨拶。来賓の横路知事は「この国際年がアイヌの皆さんと全ての道民にとって意義ある年になるよう、ウタリ協会のみなさまと連携を図りながら取り組みを進めたい」と答えた。

国会議員は、自民党と社会党、共産党の代表が登壇し、社会党の池端清一衆議院議員が「(アイヌ民族)は正しく、先住民族である。新法制制定運動を更に進めていくことを皆さんと固く誓い合いたい」とアピールすると、共産党の高橋裕子参議院議員は「日本共産党は党の綱領にアイヌの生活と権利の保障、文化の保護などを明記している」と対抗心を燃やした。

しかし、自民党の渡辺省一衆議院議員は、「アイヌ新法問題で政府はアイヌ代表から2回、北大の教授や関係者から話を聞いている。領土問題や民族問題を通して話をするのは無理。文化的、福祉的な面で少しずつ増やすことが本来の趣旨に合致するのでは、という意見が多いようだ」と政府の内情を明かした①。

総会を終えると国際先住民年の今年こそが新法制定の好機とみてアイヌ民族は活発な運動を繰り広げた。ウタリ協会は6月に上京して中央陳情を行う。16日から政権与党自民党の道内選出国会議員を訪ねるが、この時対応した鳩山由紀夫、鈴木宗男の両氏はこの後この問題のキーパーソンとなっていく。他に町村信孝、今津寛、中川昭一、佐藤孝行、武部勤、北修二など錚々たる面子が対応に当たった①。

陳情団は、宮澤喜一首相との面会を求めたが、18日に内閣不信任案が可決されるという政局の激動があり、面会はかなわなかった。内閣不信任案は衆院の過半数を占める自民党により否決されるかと思われたが、自民党から造反者が出て可決。宮澤首相は衆議院解散を選び、結果的に日本新党の細川護煕を首班とする内閣が8月9日に誕生することになる。

①北海道ウタリ協会機関誌『先駆者の集い』(第59号)平成5年7月1日 

先住民族の国際年から国際10年へ

東京から戻ったウタリ協会幹部は、新法制定を求めて総決起集会を行うとともに署名運動を展開する。

8月に札幌で行われた総決起集会では、「国連本部の先住民族国際年の開幕式典にアイヌ民族が先住民族として招待された事実を政府が踏まえ、早急に新しい法律を制定するよう次の通り要求する」と述べて①先住民族の認知について、②アイヌ民族に関する新しい法律の制定について、③北海道旧土人保護法及び旭川旧土人保護地処分法の廃止について、アピールを行った。ノーベル平和賞受賞者で国連先住民族親善大使のリゴベルタ・メンチュウ氏が駆けつけてエールを送った。

集会後およそ350名の参加者は市内をデモ行進した。署名は8月末で道内で26万5415筆に達し、市町村議会では72%でアイヌ新法の早期制定を求める決議がなされた①。

一方、国連では7月にジュネーブで先住民族作業部会が開かれた。ここには北大のリチャード・シルド氏を通訳にアイヌ協会の野村理事長、吉田昇理事が参加した。ここで先住民族権利宣言草案に民族自決権を盛り込むことが確認される。国連の先住民族の国際年は、翌年から世界の先住民族の国際10年」として延長される方向であることが報告された①。

笹村副理事長は10月4日からメキシコのモレロス州オアステベックで開かれた「第2回先住民族サミット」に出席する。このサミットはリゴベルタ・メンチュウ氏を中心に開かれたもので、28か国から86人が出席した。笹村副理事長は大会2日目にアイヌ民族からのメッセージを発している①。

そして平成5(1993)年12月に行われた国連総会で、1994年12月10日から2003年12月31日までが「世界の先住民族に関する国際10年」となることが正式に決定した。

①北海道ウタリ協会機関誌『先駆者の集い』(第60号)平成5年10月1日

自社連立村山政権の登場

一方、国内は混乱を極めた。平成5(1993)年6月に成立した日本新党の細川護熙を首班とする内閣は、わずか263日で瓦解し、羽田孜を首班とする内閣が登場するが、不信任決議を受け、これもわずか64日で終わった。代わって政権復帰を目指す自民党が社会党と組み、社会党の村山富市を首班とする村山内閣が成立する。官房長官は旭川を地盤とする五十嵐公三である。

これはアイヌ民族にとって大きな出来事だった。五十嵐広三氏は、旭川のお土産店である「北海民芸店」の創業者であり、仕入れを通してアイヌ民族と強いパイプを持っていたのである①。横路知事を軸にしたアイヌ民族と社会党の結びつきは、五十嵐官房長官を通じて国政まで達したのである。

このような情勢で、翌平成6(1994)年5月に「かでる2・7」で開かれたウタリ協会総会は、前年も増して熱気に包まれたが、情勢の変化を物語るように来賓として登壇した国会議員から自民党議員が消え、社会党と共産党だけになった②。

①野村 義一『アイヌ民族を生きる』草風館・1996・75-76p
「三党連立になって、アイヌ新法プロジェクト・チームがつくられ、五十嵐官房長官の私的懇談会「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」がつくられました。五十嵐官房長官は元は北海道の旭川の市長でしたが、市長になるまえには観光みやげ品の販売をやっていて、よく平取、白老に民芸品の買いつけに回っていて、今参議院議員になっている萱野さんのところにもきていた。だから市長になる前からアイヌとは親しくしておったんです。そういうこともあって、私どもも政府の動きに少しは希望をもつようになったわけです」とある。
②北海道ウタリ協会機関誌『先駆者の集い』(第63号)平成6年7月1日

野村理事長の最後通牒

この総会で野村義一はアイヌ新法に向け「特別発言」として重大発言を行う。

政府が6年経っても、10省庁による検討委員会が4年半かかっても、何の結論も出していない。今の政治情勢の中で陳情を行っても、政府は真剣に検討しないと思う。そこで私は皆さんに動議をお願いしたい。政府に対し、アイヌ新法をつくるのか、つくらないのかについて、11月いっぱいの期限付きで回答を求めようと思っている。

11月までに政府が回答しなかったり、つくらないという場合には、協会の検討委員会で検討の上、臨時総会を開催し、皆さんの了解を得て、日本に、世界に向かって重大な発表をしようと思っている。①

アイヌ新法制定に向け、ウタリ協会は日本国政府に対して11月末日までに回答するように最後通牒を突き付けたのである。

政府から満足いく回答が得られなければ「世界に向かって重大な発表」をするとした、その内容は明らかではないが、国連の場で日本政府の無為無策を非難することであろうことは容易に想像できた。7月10日からはスイス・ジュネーブで「第12回先住民族に関する国連作業部会」が開かれようとしていたのである。

①北海道ウタリ協会機関誌『先駆者の集い』(第63号)平成6年7月1日

ウタリ対策有識者懇談会の設立

野村理事長の最後通告は、村山政権にとって強い圧力となっただろう。7月にウタリ協会が中央陳情に上京すると、五十嵐官房長官は村山首相との面会の場を設けることを約束し、8月8日にアイヌ民族の代表と内閣総理大臣の会談が実現した①。

ウタリ協会・村山首相会談の前日、8月5日付で、二風谷(平取町)のアイヌ資料館館長の萱野茂氏がアイヌ民族として初めて国会議員になった。平成4(1992)年の参議院選挙で社会党の比例代表11位に登録されて次点に終わった萱野氏だったが、10位の松本英一氏が死去したことにより、繰り上げ当選となったのである①。アイヌ新法に向け意気が上がったのは言うまでもない。

ウタリ協会が昭和59(1984)年5月の総会で「アイヌ民族に関する法律案」を採決してから、ちょうど10年、省庁間のたらい回し状態であった「アイヌ新法」が制定に向けて具体的に動き出す。

平成6(1994)年7月11日、アイヌ新法に向け内閣内政審議室との協議が行われる①。8月31日に自民党は「内閣部会アイヌ問題検討小委員会」(与党アイヌ新法検討プロジェクトチーム)をつくり、アイヌ新法に向け本格的に検討する姿勢を見せた。委員長は高橋辰夫氏、金田栄行氏、鈴木宗男氏、武部勤氏など13名が加わった①。10月、ウタリ協会は再び中央陳情を行う。ウタリ協会の野村理事長、笹村、秋田副理事長、佐藤事務局長が、五十嵐広三官房長官に会うと、新法制定に向け官房長官の下に「私的懇談会」を設置する予定であることが告げられた②。

こうして平成7(1995)年3月30日に五十嵐広三官房長官の下に、アイヌ新法を含めた新しいウタリ対策を検討する私的懇談会「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」が設けられ、初会合が行われるのである。野村理事長は、これをもって最後通牒への回答としたのだろう。5月の総会で表明した「世界に向かって重大な発表」は行われることはなかった。

①北海道ウタリ協会機関誌『先駆者の集い』(第64号)平成6年7月1日 ②北海道ウタリ協会機関誌『先駆者の集い』(第64号)平成7年1月1日 

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