アイヌ新法の制定を目指して
令和元(2019)年のアイヌ施策推進法は平成9(1997)年成立のアイヌ文化振興法を置き換えるものであった。さらにアイヌ文化振興法は明治32(1899)年の旧土人保護法を廃案にした上で成立した。現代のアイヌ復興運動は、アイヌ施策推進法とアイヌ文化振興法の二つを軸に展開したといえる。さらに、これらの源流をたどれば、昭和59(1984)年5月27日に当時の北海道ウタリ協会総会で承認された「アイヌ新法案」に行きつく。
旧土人保護法に代わるアイヌ新法を求める動きは昭和40(1965)年代から始まっていたが、活性化したのは昭和58(1983)年4月の統一地方選挙で横路孝弘前衆議院議員が北海道知事に当選してからである。
横路道政になってからのウタリ協会の変化は驚くもので、横路知事が当選した昭和58(1983)年11月には、札幌市内の高校で偏向教育が行われたことを示す授業内容のメモを小川理事が入手すると、ウタリ協会として北海道知事に抗議文を提出した。協会が率先して差別事例に対して知事に抗議を行うようなことは堂垣内知事時代には見られなかったことだ。①
昭和59(1984)年5月の総会には、堂垣内時代に代理出席であった北海道知事の参加はもちろんのこと、祝電だけだった国会議員も自民党、社会党、共産党の議員が顔を揃えた。
翌年5月のウタリ協会総会で新法案が承認されると、同年10月に横路知事は、諮問機関「ウタリ問題懇話会」(座長=森本正夫北海学園理事長)を設置して運動を後押しした。③
この懇談会で新法問題分科会の会長を務めたのは中村睦男北大法学部教授、道教大札幌分校の助教授であった常本照樹氏が委員として加わった。常本氏は諸外国の少数民族対策調査として昭和62(1987)年9月から10月までアメリカのインディアンを調査している③。現在政府のアイヌ政策推進会議のメンバーを務める常本氏は実に40年以上にわたってアイヌ問題と向き合い続けているのである。
①北海道ウタリ協会『先駆者の集い第34号』1984-1-30
②北海道ウタリ協会『先駆者の集い第37号』1984-10-15
③『アイヌ史 北海道アイヌ協会 北海道ウタリ協会 活動史編』社団法人北海道ウタリ協会1994
アイヌ新法案前文
「アイヌ新法案」は、「この法律は、日本国に固有の文化を持ったアイヌ民族が存在することを認め、日本国憲法のもとに民族の誇りが尊重され、民族の権利が保障されることを目的とする」という一文を「前文」として次に「本法を制定する理由」が述べられている。ここには現在も受け継がれているアイヌ民族の基本認識が示されているため、以下に全文を掲げる。
北海道、樺太、千島列島をアイヌモシリ(アイヌの住む大地)として、固有の言語と文化を持ち、共通の経済生活を営み、独自の歴史を築いた集団がアイヌ民族であり、徳川幕府や松前藩の非道な侵略や圧迫とたたかいながらも民族としての自主性を保持してきた。
明治維新によって近代的統一国家への第一歩を踏み出した日本政府は、先住民であるアイヌとの間になんの交渉もなくアイヌモシリ全土を持主なき土地として一方的に領土に組み入れ、また、帝政ロシアとの間に千島・樺太交換条約を締結して樺太および北千島のアイヌに安住の地を強制的に捨てさせたのである。
土地も森も海もうばわれ、鹿をとれば密猟、鮭をとれば密漁、薪をとれば盗伐とされ、一方、和人移民が洪水のように流れこみ、すさまじい乱開発が始まり、アイヌ民族はまさに生存そのものを脅かされるにいたった。アイヌは、給与地にしばられて居住の自由、農業以外の職業を選択する自由をせばめられ、教育においては民族固有の言語もうばわれ、差別と偏見を基調にした「同化」政策によって民族の尊厳はふみにじられた。
戦後の農地解放はいわゆる旧土人給与地にもおよび、さらに農業近代化政策の波は零細貧農のアイヌを四散させ、コタンはつぎつぎと崩壊していった。
いま道内に住むアイヌは数万人、道外では数千人といわれる。その多くは、不当な人種的偏見と差別によって就職の機会均等が保障されず、近代的企業からは締め出されて、潜在失業者群を形成しており、生活は常に不安定である。差別は貧困を拡大し、貧困はさらにいっそうの差別を生み、生活環境、子弟の進学状況などでも格差をひろげているのが現状である。
現在行われているいわゆる北海道ウタリ福祉対策の実態は現行諸法諸制度の寄せ集めにすぎず、整合性を欠くばかりでなく、何よりもアイヌ民族に対する国としての責任があいまいにされている。
いま求められているのは、アイヌの民族的権利の回復を前提にした人種的差別の一掃、民族教育と文化の振興、経済自立対策など、抜本的かつ総合的な制度を確立することである。
アイヌ民族問題は、日本の近代国家の成立過程において引き起こされた恥ずべき歴史的所産であり、日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる重要な課題をはらんでいる。
このような事態を解決することは政府の責任であり、全国民的な課題であるとの認識から、ここに屈辱的なアイヌ民族差別法である北海道旧土人保謹法を廃止し、新たにアイヌ民族に関する法律を制定するものである。この法律は国内に在住するすべてのアイヌ民族を対象とする。
①『アイヌ史 北海道アイヌ協会 北海道ウタリ協会 活動史編』社団法人北海道ウタリ協会1994
文化よりも政治と経済の自立を
アイヌ新法案の本体は、条文を設けずに章ごとに概要を記したもので「第一基本的人権」「第二参政権」「第三教育文化」「第四農業漁業林業商工業等」「第五民族自立化基金」「第六審議機関」で構成されている①。
「第一基本的人権」は、「アイヌ民族は多年にわたる有形無形の人種的差別によって教育、社会、経済なと諸分野における基本的人権を著しくそこなわれてきたのである。このことにかんがみ、アイヌ民族に関する法律はアイヌ民族にたいする差別の絶滅を基本理念とする」である。
「第二参政権」は、「これまでの屈辱的地位を回復するためには、国会ならびに地方議会にアイヌ民族代表としての議席を確保し、アイヌ民族の諸要求を正しく国政ならびに地方政治に反映させることが不可欠であり、政府はそのための具体的な方法をすみやかに措置する」というものである。
「第三教育・文化」は、北海道旧土人保護法のもとにおけるアイヌ民族にたいする国家的差別はアイヌの本的人権を著しく阻害しているだけでなく、一般国民のアイヌ差別を助長させ、ひいてはアイヌ民族の教育、文化の面での順当な発展をさまたげ、これがアイヌ民族をして社会的、維済的にも劣勢ならしめる一要因になっている。政府は、こうした現状を打破することがアイヌ民族政策の最重要課題の一つであるとの見解に立って、つぎのような諸施策をおこなうこととする」と述べた上で、大学へのアイヌ民族教員の登用など、学校教育とアイヌ文化について6つの取り組みを求めている。
「第四農業林業商工業等」がもっとも充実しており、農業では適正経営面積の確保、漁業では漁業権の付与など、分野毎の施策を盛り込んだ。
「第五民族自立化基金」は、政府が原資を出資した基金をアイヌ民族が自立的に運営するものである。この他、首相直属の「中央アイヌ民族対策審議会」と北海道に「北海道アイヌ民族対策審議会」を設けることを求めた。
「第六 審議機関」は、国政や道政にアイヌ民族の声を反映させるために、首相直属の「中央アイヌ民族対策審議会」と、これと対をなす「北海道アイヌ民族対策審議会」の設置を求めるものである。
全体としてアイヌ民族の政治的、経済的地位の回復が主眼となっており、後にアイヌ政策の大宗に位置付けられた「文化」は、「現在おこなわれつつあるアイヌ民族文化の伝承・保存についても、問題点の有無をさらに再検討し、完全を期する」と述べられているほか、大学に専門講座と国立研究所を開設するよう求めるに留まっている。これらが後の法整備との決定的な違いである。
後に大きな課題となる「先住民族」概念は、「先住」の事実は争うことのないものとしても権利概念としてはまだアイヌ民族の中でも確立されていなかったことが認められる。しかし法律案の内容は土地の権利を除けば「先住権」の確立を求めるものといってよい。
①『アイヌ史 北海道アイヌ協会 北海道ウタリ協会 活動史編』社団法人北海道ウタリ協会1994
停滞する新法論議、進む国連進出
この後、ウタリ協会の運動はこの新法案の実現に向けた活動が軸となっていく。前章で紹介した市民外交センターとアイヌ民族の最初の出会いもこうした新法陳情活動のなかでの出来事であったが、国政でのアイヌ新法制定議論は遅々として進まなかった。昭和63(1988)年10月の中央陳情では応対にあたった自民党幹部から「旧土人保護法なんてまだあるのか?」という声が上がったという①。
ウタリ協会が「アイヌ新法案」を提起してから5年経過した平成元(1989)年1月ウタリ協会は道内選出の衆参両議員に上京して一斉に陳情活動を行ったが、その陳情書の第1項目には「これまでの保護・福祉政策から、わが国におけるアイヌ民族の地位を確立するための根本的政策に転換する必要があることから、国の窓口を早急に決定されたいこと」とある。まだ窓口も決まっていなかったことに驚くが、これまでのアイヌ政策は本州の同和政策の延長にあり、これとまったく趣を異にする新法の扱いに政府も苦慮していたのである②。
国会での新法議論に業を煮やしたアイヌ民族は、デモや集会を開いて大衆に訴えるようになる。アイヌ協会として最初のデモは平成元(1989)年11月14日、民族衣装を纏った約300名が札幌市の大通公園で気勢を上げた。17日には東京の全国社会福祉協議会ホールで東京集会が行われた③。
機運の高まらない新法議論だったが、それでもアイヌ民族を奮い立たせたのは、世界の先住民族との連携だった。
アイヌ民族は昭和63(1988)年6月に開かれたILO第6回作業部会で実質的に協議に参加した。ウタリ協会の機関誌『先駆者の集い』は「日本国内での活動の他に、国際社会での少数民族の位置づけがなされつつある現在と未来において、この会議からの影響は計り知れない力となっていくものと思われます」と記している④。
①北海道ウタリ協会『先駆者の集い第48号』1988-11-20
②北海道ウタリ協会『先駆者の集い第49号』1989-1-24
③北海道ウタリ協会『先駆者の集い第49号』1990-1-1
④北海道ウタリ協会『先駆者の集い第47号』1988-10-22
北方領土に関する基本方針
ILOの作業部会は、世界の少数民族の労働環境のあり方を定めたILO107号条約(を改定するもので、平成元(1989)年6月7日から開かれたILO総会で承認されてILO169条約(独立国における原住民及び種族民に関する条約)となった。
旧条約にあった同化主義的政策を改め、少数民族の独自の制度、生活様式、文化を尊重する原則に改められた。また伝統的に所有してきた土地の権利が盛り込まれた。国境を越えた民族の往来の保証など変化は大きい①。
総会でウタリ協会の野村義一理事長は発言を許され、旧土人保護法の廃止と新法制定の必要性を訴えた。日本政府も多くの代表団を送り、「アイヌの人たちの日本社会への統合が進んでおり、彼らを他の集団から明確に区別することが困難になりつつありますが、彼らの独自の言語及び宗教を保持し、彼らの独自の文化が保持されてきました」と限定的ながらアイヌ民族の存在を国連の場で認めた②。
この条約を日本は批准しなかったが、これを契機にアイヌ民族の国際交流が進む。同年6月7日に日本で初めて「世界先住民族会議」が札幌、平取、釧路を会場に開かれる。9月には白老町で「北方民族国際フェスティバル」が開かれた③。平成3(1991)年5月には、ILO先住民族作業部会のダイス議長が来日し道内で6日間過ごした④。
世界各地の先住少数民族との出会いを通じてアイヌ民族は民族意識を高め、平成2(1990)年5月のウタリ協会総会では「『北方領土』問題に関する基本方針」を採択し、
①政府及び道は、徳川幕府による開発以前の全千島における先住者であるアイヌ民族の地位を再確認すること。
②政府及び道は、「北方領土」に関連し、北海道についても先住者がアイヌであったという厳然たる歴史的事実を明確にすべきこと。
を決議した⑤。
北方領土問題については日本政府と歩調を合わせてきたアイヌ民族であったが、ここから独自の立場を取ることになったのである。
①マヌエラ・トメイ、リー・スウェプストン著『先住民族の権利ーILO第169号条約の手引き』論創社・2002
②北海道ウタリ協会『先駆者の集い第51号』1989-10-25
③北海道ウタリ協会『先駆者の集い第47号』1988-10-22
④北海道ウタリ協会『先駆者の集い第55号』1991-1ー25
⑤『アイヌ史 北海道アイヌ協会 北海道ウタリ協会 活動史編』社団法人北海道ウタリ協会1994
国際先住民年に向けて
ILO169条約を制定した世界的な先住民族の民族意識の高まりを受け、平成3(1991)年、国連は1993年を「世界の先住民の国際年」(国際先住民年)にすることを決定。さらにより広範な先住民族条約をつくろうという機運も高まる。ウタリ協会はこれをアイヌ新法制定の好機にしようと陳情活動を活発化させた。
平成3(1991)年4月、ウタリ協会幹部は海部首相を訪ねて、アイヌ新法の早期制定と、ゴルバチョフ大統領の来日に合わせ、北方領土のアイヌ民族による先住権の確認を求めた。5月には来日中のダイス議長と外務省を訪ねて新法に向け協力を要請する。しかしながら政府の対応は、「世界にも類を見ない法制度であり、幅広い検討が必要で時間を要している」との説明を繰り返すばかりだった①。この憤りがアイヌ民族として初めての首都東京でのデモに繋がった①。
こうした中で、アイヌ民族の環境を一変させる出来事が平成4(1992)年12月10日、ニューヨークで起こる。国連の「国際先住民年」の開幕式典が国連本部で開かれ、記念演説に野村義一理事長が演説を行うのである。
このことを報じたウタリ協会機関誌『先駆者の集い』(第58号)は、「出席には、かねてから協会の活動にご協力をいただいていた市民外交センターの推薦、御支援がなければ実現しなかったことも加えてお伝えします」と書かれた①。同センターの年次報告1992/93年版では次のような経緯が記されている。
記念演説の招待者に関しましては、人権担当事務次長で「国際先住民年」の最高責任者であるアントワーヌ・ブランカ氏から92年10月9日付の手紙で、候補者を推薦するように依頼がありました。センターではリゴベルタ=メンチュウさん、野村理事長、そしてマレーシア・サラワクの先住民族の代表を推薦し、特に野村理事長に関しては国連事務当局との交渉の結果、推薦が認められました③ 。
国連総会での野村理事長の演説は、日本のアイヌ政策に劇的な変化を及ぼすのである。
①北海道ウタリ協会『先駆者の集い第57号』1992-3-1
②北海道ウタリ協会『先駆者の集い第58号』1993-3-29
③市民外交センター編「ピース・タックス年次報告1992/93年」1994ー2