ケプロン招聘とインディアン政策
インディアン政策をケプロンは北海道に輸出した?
最初にAIに「平野克弥って人はどんなことを言ってるのか?」と尋ねたとき、返ってきた要約のひとつに、「アメリカでインディアン政策に辣腕を振るったケプロンが、その経験を北海道のアイヌ政策に応用した」というものがあった。平野克弥で検索をかけたら他でも同様のことが出てきたことから、彼の論の主要な主張なのだろうと思った。聞いたことのない話であるが、言われてみればありそうな気もする。
仲間たちと開いている開拓期史料の読書会で三県時代の根室県令湯地定基が書いた上申書を読んだことがある。湯地はケプロンの通訳としても知られる人物で、ケプロンの北海道視察に同行していた。もし平野が言うようなことがあったのなら、湯地もケプロンのインディアン由来のアイヌ政策について聞き及んでいたはずだ。しかし、読んでいた史料の内容からは、そのような片鱗は一切見当たらず、その気配さえ感じられなかった。
そこでとりあえず、ネットでヒットした平野の文章を読んでみた。英語で書かれたものだが、今ではAIに頼めばそのくらいすぐに翻訳してくれる。便利な時代になったものだ。
読んでみたら結構アレだった。どうアレだったか──というと、アレだったから私は今こんなことをやっている、程度にアレだったのだ。
事実化した個人の推測
平野氏の英語論文(Settler-Colonialism, Ecology, and Expropriation of Ainu Mosir)は、黒田清隆がケプロンを招いた経緯について、こう書いている。
It is quite likely that Capron’s earlier experience managing the forced removal of Native Americans, including those affiliated with Delawares, Shawnees, Creeks, Comanches, Kickapoos, Wichitas, and others, from Texas to new territories after the Mexican–American War, appealed to Kuroda and his government.
訳:ケプロンが以前、メキシコ・アメリカ戦争後にデラウェア族、ショーニー族、クリーク族、コマンチ族、キカプー族、ウィチタ族などをテキサスから新しい土地へ強制移住させる業務を担当していたという経験が、黒田とその政府にとって魅力的だったのは、まず間違いないだろう。https://manifold.uhpress.hawaii.edu/read/migrant-ecologies/section/b03b25af-b873-47e5-9417-dce686ed0a37)
「まず間違いないだろう(quite likely)」――AIはこう訳したが、要するに「とってもありそうな話」ってことだ。つまりこれは、史料によって裏付けられた事実ではなく平野の推測にすぎないのだ。インディアン政策の遂行者ケプロンを、その経験を見込んで北海道に招き、彼のインディアン政策をアイヌに応用したという、よく知られる平野の主張が実は推測でしかなかった──これには拍子抜けした。
根拠を欠いた印象操作
このすぐあとで平野はこうも書いている。
Indeed, Horace Capron, who hailed from the United States, working as the chief adviser for the Meiji government’s colonial polices in Hokkaido, called Hokkaido a virgin land and wilderness and proposed in his 1872 report a Japanese version of his country’s allotment and land redistribution policies for Indian Territory set out in the US Homestead Act of 1862.
訳:実際、アメリカ合衆国出身で、明治政府の北海道植民地政策の最高顧問を務めていたホーレス・ケプロンは、北海道を「処女地」であり「荒野」であると呼び、1872年の報告書の中で、1862年のアメリカ・ホームステッド法に定められた、インディアン・テリトリー向けの土地割当・再分配政策の日本版を提案した。
この一文、非常にわかりにくかったのでAIに投げてみた。すると「ミスリーディングな書き方になっている」と教えてくれた。
1862年のホームステッド法というのは、アメリカ国内で一般の入植者(黒人や移民も含め、条件を満たせば誰でも)に公有地を払い下げる制度であって、インディアン向けの土地政策ではない。「インディアンへの土地割当政策」として知られているのは、これとは別の、25年後の1887年のドーズ法(一般土地割当法)である。
それなのにこの一文は、「1862年のホームステッド法に定められたインディアン・テリトリー向けの土地割当・再分配政策」と、両者をひとつなぎに書くことで、まるでホームステッド法そのものがインディアン政策であったかのような印象を与えている。ケプロンが実際に依拠したホームステッド法は1862年制定の一般法であり、これがインディアン向けの土地割当政策だったとする根拠はない。インディアンへの土地割当を制度化したドーズ法は1887年、ケプロンの報告書から15年も後に制定された法律である。
しかも、この一文についている注(17)を辿ると、これは平野氏自身の2015年の旧稿への自己言及であって、第三者の資料ではない。
さらに、ケプロンの報告書から実際に直接引用されている部分(注18)を見ても、そこにあるのは「160エーカーの土地を10ドルで」という、ごく普通のホームステッド法の入植条件であって、「インディアン・テリトリー」という言葉はどこにも出てこない。
見当たらない「処女地」
「処女地」という呼び方についても、同じ注(17)がついているだけで独立した裏付けにはなっていない。処女地と言えば、いかにも、これからガンガン開拓するぞ!と、征服欲満々なイメージが浮かび上がる。本当にケプロンが北海道を「処女地」なんて呼んだのかと(しかも断定してるし)、『ケプロン報文』(「新撰北海道史」第6巻収録)を検索したがヒットしない。
ここで問題なのは、訳文では「処女地」と鍵かっこがついているが、英語本文には引用を示すマークは何もないということだ。こんなインパクトのある表現にも典拠が示されていない。
仕方がないので、ケプロン日誌(『ケプロン日誌 蝦夷と江戸』西島照男訳、北海道新聞社、昭和60年)まで手を広げてようやくそれらしき記述(札幌へ向かう道中、島松付近の原野を眺めた場面)が見つかった。
何か文明の印はないものかと周囲を見渡す、すると、辺りの眺めを遮る高い木の美しい茂みの向こうに、白い家が見える。牛や子羊の鳴き声はしないかと耳を傾ける。あるいはまた、暖かい恵みの太陽に、豊かな土地を掘り起こす、太くたくましい一組の牛を追う農夫の、歌声が聞こえはせぬかと耳を傾ける。
だが、すべての物は静止し、死のような静寂が、この素晴らしい光景を支配している。木の葉一枚そよがず小鳥のさえずりはおろか、生ける物の音一つせず、すべての物は静止し、創造されたままの姿である。
何と驚くべきことだろうか。この豊かな美しい土地が、世界で最も古く、人口稠密な国の財産で、しかも、こんな近いところに位置し、多くの港があって、どこからでも船で行けるのに、これほど長い間人も住まず、アフリカの砂漠のように、ほとんど知られずにいたとは。(p.119)
「創造されたままの姿」という表現は「処女地」に通じていると言えば通じているかもしれない。平野はこれらの表現をもって「ケプロンは北海道を処女地と呼んだ」というかなり決定的な文章にまとめたのだろうか。しかしそこには「白い家が見える」とはっきり書いてある。人の営みの徴を示す土地を「処女地」と呼んだと断定するのは少々強引だ。
しかもこの記述、函館でアメリカ艦船を見送ったあとの心細さのなか望郷の念にかられ、目にするものすべてに故郷アメリカ西部の面影を重ねて見る感傷的な文章であって、もし仮に平野がこの箇所から「処女地」と言う言葉を導いたのだとしたら、以下のような強い文章に断定的に引用されるのはさすがに抵抗がある。
「テラ・ヌリウス」や「処女地」といった言葉は、アイヌの生存手段を完全に収奪し、彼らと自然環境との関係を根本的に否定することを正当化するための、植民地主義の道具として機能した。こうした戦略的な言い回しは、アメリカの西部開拓の政策から持ち込まれたものである。
Language like terra nullius and “virgin lands” worked as a colonial tool to justify the total expropriation of Ainus’ means of sustenance and fundamental negation of their relationship with the natural environment. These strategic idioms drew from United States’ policies for the American West.16
同化の推進と拒絶
さらに言うと、この文章を書いた日(1872年7月20日)の三日前(17日)にケプロン一行は白老のアイヌ部落を訪ねてそこで歓待を受けている。そこでケプロンは、アイヌの人々を「持って生まれた知性は素晴らしい」(p.118)と高く評価し、「我々が道路や工場などを作ることに大いに満足し、そしてわざわざ遠くから援助に来たことに対し感謝の意を表する」。「疑う余地なく、この人たちは、文明社会のすべての良風にすぐ同化」するだろうと同化政策を当然視している。
じつはこの点は、平野が『思想』論文で引用しているアメリカの帝国主義的人種主義を論じた文章と矛盾している。平野が引用するブルース・カミングスは「他者の文化はアングロ=サクソンの信条に反するものであり、人種の違いからして同化は論外であり…」(平野『思想』p.12)と書いているのに、ケプロンはアイヌの同化生活を前提にしている(そうか! ケプロンはアイヌが日本人と同化するのは構わない、ということなのかもしれない。『日誌』を読むとケプロンはけっこう日本人のことを見下していた)。
習慣の面では「何年も前に経験したアメリカのインディアンのことを、いろいろと思い出させる。ただし、インディアンの凶暴、反逆、残酷だけは別で、これは蝦夷のアイヌには見当たらない」(p.119)。インディアン政策に携わったことへの言及はあるが、そのインディアンとアイヌを、暴力性などの面で画然と区別し、対照的に好印象をもったと記している。
支えのない強弁
こうして一つひとつ確かめていくと、見えてくるのは、「ケプロンのインディアン政策の経験がアイヌ政策に引き継がれた」という、いかにも説得力のありそうな連続性は、史料が語っている話ではなく、平野が推測として提示し、法律の名前を巧みに混同させつつ、本文の随所(西漸運動の継続、テキサスでの経歴)でその推測に肉付けをすることで、読者に既成事実であるかのような印象を与えようとしている、という構図だ。
しかも、その推測と矛盾する記述――ケプロン自身がアイヌをインディアンとはっきり区別して高く評価していたという記述――は、注では触れられていても、本文の骨格には反映されていない。ケプロンがインディアン政策を担当したという経歴に不自然に強い光を当てて、それでもって全体を引きずりすぎているのではないかと感じられた。
『思想』論文では、これほど露骨ではないものの、西部開拓イデオロギーとその人種主義の洗礼を受けたケプロンにとって、「北海道開拓の仕事は、『西漸運動』の継続を意味していた」(『思想』p.13)とする。
「1871年に当時北海道開拓次官の黒田清隆と出会ったケプロンは、ユリシーズ・グラント大統領の農務長官を務めており、農業政策の専門家であり、インディアンの徹底排除を目指したミラード・フィルモア大統領時代(1851)の命によってクリーク、デラウェアなどアメリカの先住民をテキサス(1845年に合衆国に併合)からオクラホマに強制的に移住させた責任者でもあった」(p.13)。
さすがにインディアン政策の手腕を買われて、とまでは書いていないが、「インディアンの徹底排除」をケプロンが実行したのかしないのか、これも注がないので確認できない形のままで、インディアン弾圧を徹底的に行った責任者のケプロンが北海道にやってきた、ではアイヌも……的な方向に読者を誘導しようとしているのではないかという気がしてならない。
ここまで検証しただけでも、断定の強さを支えるだけの一次資料が提示されていないという点は、平野の叙述の傾向として指摘できるだろう。(続く)
