北海道セトラーコロニアリズムに物申す 第2回(下)

北海道セトラーコロニアリズム

史料から見る、ケプロンの土地政策への影響

アメリカ人顧問の献策

しかしながら、『新撰北海道史』第三巻・通説二(1937年)の記述には、平野の言うようなアイヌの土地政策への影響は認められない。

開拓使が広大な新開地の処分方法をめぐって苦慮し、ケプロンら招聘外国人の意見を仔細に聴取したこと、その結果、ケプロンは以下の方法を参考制度として提示したとある(p.327)。アメリカのホームステッド法の条文(160エーカーを10ドルで、5年間定住・改良を条件に取得できる、あるいは即金なら1エーカー1.25〜2.50ドルで取得できる、外国人への払い下げは公有地の倍額での現金売買に限る、という三箇条)がケプロン報文に記録されているし、開拓使日誌にも記されていると『新撰北海道史』は語る(p.328)。この辺りは、平野も英語論考で紹介している。

そのほかに、この参考法(ホームステッド法)と実際の売貸規則との対照、ケプロンが測量区分の不徹底を警告、土地の割渡しに際して道路用地をあらかじめ確保すること、狡猾な者による土地の不法占有を防ぐことなどを忠言したとある(p.329)。

あわせて「アンチッセル」(トーマス・アンチセル、別の招聘アメリカ人技師)による、貸与地の賃金や年限、農民移住者への土地分与の実務的な提言の紹介、外国人への土地売買を厳しく制限する布告、道路・公共用地の確保といった話が続く。

ケプロン関与せず

この4ページから言えるのは、ケプロンらへの相談内容が「一般の移住者・市民向けの土地制度(売貸規則、区画、外国人への制限、市街地割)」だったことだ。アイヌ、旧土人という言葉は、この範囲には一度も出てこない。土地配分をめぐるケプロンの助言・関与を具体的に扱った章でありながら、そこにアイヌの土地配分が一切登場しないということから、「ケプロンがアイヌへの土地分配(と言うより収奪?)に関与した形跡がない」と、ほぼ確定できるだろう。

そもそも平野はケプロンがアイヌの土地政策のアドバイスをしたなどとは言っていない、と反論があるかもしれない。しかし平野の、先に指摘した文章、「1862年のホームステッド法に定められたインディアン・テリトリー向けの土地割当・再分配政策」という表現は、シロとは言えない。そもそも、ケプロンのインディアン政策の経験が黒田にアピールしたのではないか、という一文は、史料がなく確定もできていないのだからわざわざ入れる必要はなかったのではないか。

あえてしたというところに、北海道開拓とアイヌ政策の話に、ネイティブ・アメリカンが辿った誰もが知る悲惨な歴史の影を重ねて見せようとする誘導を感じる。しかし、少なくともアイヌの土地収奪(?)にはケプロンは関わっていなかった、というのが史料の示す事実である。

狩猟禁止は和人猟師の保護?

平野の英語論文は、全体としてアイヌから土地や生存権を奪った北海道開拓は、アメリカから招聘した専門家たちと協力して推進されたことを前面に出す。ケプロンを始めとするエドウィン・ダンやアンチセル、クラークの高度な専門性が北海道開拓に活用された事例が積み重ねられる。そのなかでも天然資源の枯渇、特に鹿の急減という事態によってアイヌが生存の糧を失ったというくだりは特に印象に残る。

それについて、平野はこう書いている。

At the same time, overhunting by Japanese settlers—armed with rifles—contributed to such a sharp decline of wild animal populations that the agency enacted other laws to regulate hunting in 1878. These laws were intended to protect not the Ainu, but Japanese hunters, whose reckless overhunting of animals such as deer, bears, and raccoon dogs—all major game animals central to the Ainu diet—began as part of the Meiji government’s initial policy of extracting capital through predatory colonial development of Hokkaido.

Settler-Colonialism, Ecology, and Expropriation of Ainu Mosir A Transnational Perspective

(訳) 同時に、猟銃をもった日本人入植者による乱獲が野生動物の急激な減少を招き、開拓使は1878年に狩猟を規制する別の法律を制定した。これらの法律が守ろうとしていたのはアイヌではなく、むしろ日本人猟師の方だった。彼らによる、鹿・熊・狸などーーいずれもアイヌの食生活の中心をなす獲物であるーーの無謀な乱獲は、北海道の略奪的な植民地開発を通じて資本を搾取するという、明治政府の当初からの政策の一環として始まったものだった。

ちなみにこの一文、注がついていない。前後の文にはちゃんと注がついているのに、「規制法が守ろうとしたのはアイヌではなく日本人猟師だった」という、一番踏み込んだ解釈の部分にだけ、なぜか出典が示されていないのだ。

守られていたのはアイヌ猟師だった

では実際はどうだったのか。狩猟規制の経緯は複雑で頻繁に改正されているために、全体像をつかむのはなかなかむつかしい。また、当時の開拓使庁自体の中央集権権力が微弱であったために、法支配が徹底されておらず、地域差が大きかったことを、山田伸一『近代北海道とアイヌ民族-狩猟規制と土地問題』(北海道大学出版会、2011年、p.51)が指摘している。

ここで、この山田の著作からアイヌの鹿猟対策の大筋を整理する。明治9年(1876)の北海道鹿猟規制では、頭数管理・猟者数600名の定員制・免許制・課税・毒矢禁止といった枠組みが設けられた。このうちアイヌについては、伝統的な猟法である毒矢猟を禁止する代わりに、猟銃を貸与し、鹿革の売り上げの2割を返済に充てさせ、弾薬の払下げや射撃指導を行うという代替措置が取られている。またアイヌに対する免税措置も、鹿猟がアイヌにとって生存そのものに関わる営みだったことへの配慮とみられる。

ところが明治11年(1878)の改正で猟期が延長され、定員も600名から780名に増員されたことで乱獲がさらに進むと、明治12年(1879)11月、鹿猟規則第四条により十勝・勇払郡植苗村美々周辺で、翌明治13年(1880)2月には釧路でも、鹿の減少によるアイヌの食糧不足を理由に、アイヌ以外の鹿猟が禁止されるに至った。

つまり、少なくとも十勝地方と勇払の一部、そして釧路では、明治12〜13年、鹿猟を禁じられたのはアイヌではなく、むしろアイヌ以外の者だった。アイヌの鹿猟を死守するためにアイヌ以外に禁じていたのだ。

アイヌへの税金免除も続いていた。「規制法が守ろうとしたのはアイヌではない」どころか、正反対の運用がされていた地域があったことが法律の制定や改正を丁寧に追っていけば見えてくる。ちなみに、この山田の著作は、平野自身も別のところで引用しているのと同じものである。

ジェノサイドという結論

このように、平野の著作では、強い言葉が、時として引用を示さずに使われて断定的に、北海道のセトラーコロニアリズムはアメリカの専門家の力を借りて進展していった、と語る。北海道に、セトラーコロニアリズムって本当にあったんかい? といった道民の素朴な疑問は捻じ伏せられそうになる。

この論文では、アイヌがイオルという森や川など、猟や漁を行い生活のための資源を得ていた環境を、明治維新後の同化政策によって喪失したことを訴えている。平野はこの論文の結びで、開拓によるアイヌの生態系との関係の変容を「a genocidal transformation」と呼んでいる。ジェノサイド、つまり「集団殺害」である。これはさすがに聞き捨てならない。

明治維新後にアイヌの人々が受けた急激な生活の変容、同化政策などが彼らに大きな困難を強いたことは事実だろう。しかし、それは「集団殺害」という言葉が本来指し示してきたもの――大量虐殺という、意図をもった物理的な絶滅行為――とは、次元の異なる話のはずだ。生態系との関係が変容したつらい歴史があった、ということと、「ジェノサイド」があった、ということの間には、埋めがたい溝がある。

もちろん、文化や生活様式の破壊まで含めて「ジェノサイド」として捉え直そうとして、この語を使う向きがあるらしいことは知っている。ただ、もしその立場を取るのであれば、なぜこのケースがそこに該当するのかを、きちんと論証すべきだろう。

結論部分で、一番強い言葉だけをぽんと置いて終わる、というやり方では、それまで積み上げてきたはずの史料に即した記述が、この一語で様相を一変してしまう。これもまた、これまで繰り返し見てきたのと同じ、史料の裏付けを追い越して結論だけが先走っていく、平野の書き方の癖を感じて苦い読後感が残ったのである。

(つづく)

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