目的は論文検証
前回まで平野の英語論文、Settler-Colonialism, Ecology, and Expropriation of Ainu Mosir: A Transnational Perspective(2023)について検討してきた。
セトラーコロニアリズムという理論が、もともと北米大陸やオーストラリアの入植史から練り上げられてきたこともあってか、平野はこれを北海道に適用するにあたって、ケプロンらアメリカから招聘された顧問たちが北海道開拓に与えた影響を重視し、「ケプロンにとって、北海道開拓の仕事は「西漸運動」の継続を意味していた」(平野「主権と無主地―北海道セトラー・コロニアリズム―」『思想』12~13頁)と規定する。
それについて思うところはあるが、当連載は平野克弥の北海道セトラーコロニアリズム論の批判的検討に集中する。この連載は、平野克弥の二論文についての検証作業であり、これによって北海道セトラーコロニアリズム論全体を否定することまでを射程にしているのではないことは、あらかじめ断っておく。
平野の『無主地』論
今回はいよいよ本丸、平野が主張する核心部分、すなわち「明治政府は国際法上の主権概念を獲得してそれをもとにアイヌの主権を否定、『無主地』論によってアイヌの土地、アイヌモシリを奪った」という議論そのものを検討してみたい。
平野の議論を私なりに整理するとこうなる。
国家主権概念の成立
主権とは、独立した国家として実現された共同体のみが体現できる、理性の最高の発現形態とされる。国家を持つ者だけが特定の領土を統治する自由を実現できるとされ、国家を持たない社会(アイヌやオーストラリア先住民を例示)は、理性を体現できない「野蛮人」として統治・教導の対象とされた。
国家間には条約という法的約束事が成立しうるが、国家と無国家社会との間にはそれが存在しない、という非対称な扱いも、この「文明」対「野蛮」のイデオロギーの反映であり、先住民の土地を占有する論理をも支えた。
ウェストファリア体制以降のこの主権概念は、対内的には国家という最高権威がその意志を全臣民に及ぼし執行する統治権、対外的には他国と対等に立ち、いかなる上位の政治機構にも服さない独立性、という二つの意味を持つ。グロティウスは、国際法の生みの親の一人として、国家主権をこうした原理として描いた。
グロティウスの無主地・先占概念
定住意識を持たないとされる社会(遊牧民社会など)の領土は「無主地」とみなされ、移住・征服による占有の対象とされた。グロティウスは、スペイン・ポルトガルが採っていた「発見」を占有の根拠とする論理を退け、実際の物理的占有こそが権原を生むという原理を打ち立てた。これがオランダ・イギリス・フランスの植民地帝国が自らの先占を正当化する理論的土台となった。
18世紀半ば、ヴァッテルはこの先占論を再理論化する。大地は創造主が全人類に生活の資を得させるために定めた場所であり、居住地を持たない人類はそこに移住し必要なものを得る権利を持つとしたが、耕作による利用を正当な占有の条件とし、遊牧・放牧で生活する民はこの基準を満たさないとした。
ヴァッテルの先占の四条件
ヴァッテルは、先占が正当と認められるための条件を四つ挙げている。①先占の主体は国家であること(国家の名において、委任を受けた者が行う、あるいは国民の行為を国家が追認することでも成立する)。②先占の客体は無主の土地であること(人が住んでいても、国家がその領有意思を十分に表明すれば、遊牧民の土地は実体として無主地とみなされる)。③現実の占有という実体的要件(土地の使用・定住・植民)を満たすこと。④先占の意思が明示されるという精神的要件を満たすこと。
ロックの労働所有論
無主地の先占の正当性を労働に求める系譜は、ジョン・ロックに遡る。ロックは、人が耕し、植え、改良し、その産物を利用しうる土地こそがその人の所有物になる、と定義する。神が人間に与えた理性は、自然を征服し改良する固有の能力であり、労働によって土地を共有地から囲い込み、改良(reform)することを人間に命じている、とロックは論じた。世界を永遠に共有のまま未開拓にしておくことは神の意思に反し、世界は「勤勉で理性的な人間の利用に供するため」に存在するのであって、労働によって改良されない土地は荒廃地だ、とされる。
西洋直輸入なのか
こうしてヨーロッパ啓蒙思想の中で、狩猟・採集に依存し、耕作による改良を行わない先住民は、この基準を満たさないとされ、彼らの大地は無人の荒廃地として収奪の対象とされていった。神や理性の名の下に遂行されたこの収奪の論理は、土地の収奪だけでなく、先住民が歴史や文化を持つ人間であることそのものを否定する、エスニック・クレンジングの道義的根拠にもなっていった、と平野はまとめる。
平野は、この西欧生まれの論理が明治日本に持ち込まれ、アイヌモシリを国際法的に「無主地」とみなして収奪する法的根拠を得た、と主張している。このあたりの法律的整理や理論に関して、この一連の思想が帝国主義の植民地収奪を正当化していたのか、と納得する。西欧に関してはなるほど、そうだったのだろう。
とはいえ、一つ素朴な疑問が浮かぶ。この法理論の枠組みが本当に、そっくり日本に輸入されたのか。たとえば、具体的にどこで、誰がどういう理屈でもってアイヌから土地を収奪するのに使ったのだろうか。
いやその前に、明治政府がアイヌから土地を収奪した、という話は本当なのか。地券条例第三種で国有地化した、という流れは知っているが、読書会で仲間とともに読んできた学びから納得できない部分もある。そもそも平野の議論は韜晦で、一介の道民の頭では非常に読みにくく理解もしにくい。平野の議論を理解するために一文一文を詳細に分析してみることにした。
『万国公法』を検証する
平野は、明治日本がこの主権/無主地論を学び取った窓口として『万国公法』を挙げる。これは、徳川幕府の命によってオランダに留学した(1862~1864)西周が、津田真道とともに週二回ライデン大学のフィッセリング教授から国際公法の講義を受け、「帰国後、西と津田でその口述記録を翻訳したものが1868年に刊行された」(平野『思想』15頁)ものであると平野は述べる。
この法理論が列強の他国に対する植民地支配を正当化したと言われており、また本来国際法上対等とされる国々が支配したり、されたりする現実はどうして起こるのか、についての根拠となる国際法はここに求められる。当時不平等条約を押し付けられていた日本がその立場から脱却する方策を模索するなかで読まれたのがこの書物だったことには、平野も触れている。
ところが、この書が刊行された来歴を知ると、平野の記述とはずいぶん違う面が見えてくる。まず、この訳書は西自身が満を持して世に問うた、といったものではなかった。「實は外交当局が、たまたま西の門人が持っていたこの譯稿をみて、外交上有益な文献と認めて勝手に上梓した、いわば官製偽版であった」(『西周全集』第二巻、解説、691頁)。
西本人がフィッセリングに宛てた手紙によると、そのなかで西は「小生の門人ども」の手になった種々の写本からなり誤植が多いので、いずれ自分で訳注付のものを出版したいという趣旨のことを書いている。つまり最初から外交当局の要望から出た条約交渉などの実務文書として流通していたというのが実態だった。
投げ出された問い
平野は、無主地がどのように国際法的に根拠づけられているかの説明に入る。「文明国としての条件を満たさない―領土、国境、定住民、国家を持たない―とされる社会の法的な地位をどのように定義していたのだろうか」(平野『思想』17頁)。これは、そうした社会の構成員が国際法上どのような法的地位(主体性、人格)を持つとされたか、という問いかけのように読める。
ところがこの問いを受けて提示されるのは、その答えではなく、『万国公法』第六章「取得」において主権国家が自由に取得できるとされる土地の条件の列挙である。『万国公法』第六章「取得」に「主権国が「自由に」取得していい領土として「無主地」の定義を見ることができる」と平野は続ける。見やすくするため改行して平野の引用を再現する。
「未タ主ナキ物件」、
つまり「未タ全く住民ナキ地」(無主地)、
あるいは「前二住民アリケレドモ後是ヲ棄テ去リタル地」、
また「其民漁猟或ハ遊牧ヲ以テ生トナシ、占メテ常居トナサズ唯時ニ来リテ猟牧スルノ地」(平野『思想』17頁)
以上の列挙である。主権国家が自由に取得してよい土地のタイプを四種類上げるだけなのだ。法的な地位の定義については触れないままに、である
これは「ある種類の土地がどう扱われるか」の話であって、「そこに住む人々や社会がどのような法的地位を持つか」という、最初の問いへの直接の答えにはなっていない。関連はしていても、問いに対して直接答えていない。だから分かりにくいのだ、と納得する。
原典を検証する
そこで『万国公法』本文にさかのぼって調べてみた。以下、『西周全集』第2巻、平野が注で指定したページからそのまま引用する。
まず
第七節 萬國公法ニ於テ所有ヲ得ルノ道二ツ 第一ニハ 取有 第二ニハ 増息
として、西は、西欧における所有権取得の伝統的な二類型を整理している。「取有」とは、まったく無主のものを新たに獲得する方法、「増息」は、すでに自分のものである財産から自然に増えた分を獲得する方法、という、性質の異なる二種類の所有権取得根拠を並べる。
アイヌモシリをめぐる平野の議論で意味を持つのは、当然「取有」の方――無主地を先占によって取得する、という論理になる。ここから平野の列挙に相当する部分だが、驚くべきことが書かれていた。
第八節 取有ニ依テ是ヲ得ルハ唯未タ主ナキ物件ニシテ始テ可
第九節 是ヲ以テ唯未タ全ク住民ナキ地或ハ前ニ住民アリケレドモ後是ヲ棄テ去リタル地ハ、是ヲ取有ニ依テ管轄スルコトヲ得ヘシ
第十節 然ルニ或ル説ニテハ、其民或ハ漁猟或ハ遊牧ヲ以テ生トナシ、占メテ常居トナサス唯時ニ来リテ猟牧スルノ地ハ、是ヲ取有シテ管轄スルモ亦權ノ准スル所タルヲ固守セリ
紛らわしい加筆
第八節の現代語訳は、「占有(取有)によってこれを得ることができるのは、ただ、いまだ持ち主のない物件に限って、初めて可能である」。これは占有できる原則について述べている。
第九節の現代語訳は、「したがって、いまだ全く住民のいない土地、あるいは以前は住民がいたけれども、その後これを捨てて立ち去った土地については、これを占有によって管轄することができる」。
平野が(無主地)と括弧書きをしていたのは、第九節の一部「未タ全ク住民ナキ地」の後ろということになるが、原文ではそんな括弧書きは存在しない。
平野が引用文中「未タ全ク住民ナキ地」のあとに挿入した(無主地)というのは、原文の用語ではなく、平野自身が読者向けに付け加えた注釈的な言い換えということになる。それを、原文の一部なのか、平野の挿入なのか区別のつかない形で加筆されている。
留保の隠匿
第十節の現代語訳は、「しかし、ある説によれば、その土地の住民が漁猟または遊牧によって生計を立てており、そこを占有してはいても常住の地とはせず、ただ時おりやって来て猟や放牧をするだけの土地については、それを取得して支配下に置くこともまた、正当な権利の範囲内にあるという立場を、その説は頑なに主張している」。
冒頭から「然ルニ或ル説ニテハ」――「しかし、ある説によれば」――という留保つきで始まっている。
つまり、狩猟・遊牧の民が住む土地を取得してよいという主張は、原文自身が「これは一つの学説にすぎなく、定説として確定はしていない」という位置づけで紹介しているのであって、九節の、「誰も住人のいない土地、過去にいたが捨てられた土地」の話と同じ確定した規範として同列に並べられているわけではないのだ。
平野の引用の仕方は、九節と十節を地続きの、同格の定義の羅列であるかのように並べているが、原文では、後者は前者よりも一段弱い、留保付きの「ある説」に過ぎない。
『万国公法』の原文を検証した結果のこれまでの知見をまとめると、第一に、平野論文の核心の語である「無主地」自体が、彼の引用元の原文には存在しない、平野の挿入語である。
第二に、狩猟・遊牧地を無主地として取得してよいという主張は、原文では「或る説にては」という留保付きの、確定していない学説として紹介されているだけなのに、平野はそれを確定した規範であるかのように扱っている。
唐突な提示
さて、平野が最初に投げかけた問い、「文明国としての条件を満たさない―領土、国境、定住民、国家を持たない―とされる社会の法的な地位の定義は何か、の答えを探すために原文を当たったわけだが、少々脱線してしまった。
話を元に戻すと、平野はその問いに正面から答えずに、いきなり主権国が自由に取得していい土地の話に飛躍させた。文明国としての条件を満たさないとされる社会の法的な定義はどこに行ったのか、と途方にくれる読者を置き去りにして、「こうして、国際法において「非文明」とされた社会は、平等という原理から排除され、その存在そのものも「法的人格を有しない」ものとして収奪の対象となっていった」と締められる。
最後に、いつのまにか「非文明」とされた社会へと転換されて、突然、「平等から除外され、法的人格を有しない」、といった、『万国公法』には出てこなかった言葉がでてくる。「平等から除外され」たとは、いつ出てきた話なのか? 「法的人格」についても初耳だ。
「土地が自由に取得できる」ということと「法的人格を持たない」ということは、論理的には別の話なのに、その橋渡しが示されないまま、いつの間にか後者が結論として提示されているのだ。ここは、『万国公法』から無主地論を法理として採用したというプロセスを描いた、平野の無主地論の核心部分なのだが、最初からこれでは、先が少々心配になってくる。
論理のズレと強引な飛躍
この節の問題は、問いを立てる → 無関係とは言わないが微妙にずれた材料を並べる → いつの間にか、しっかりした引用も示されないまま、最初の問いより強い結論に着地する、というパターンになっていることだ。論理のズレと強引な飛躍があると言っていいだろう。これは、前回にも指摘したこの人の傾向と言えるかもしれない。
しかも「無主地」という、この論文のタイトルにもなっている言葉は原文の「万国公法」には存在しない、平野が挿入した語だった。
アイヌモシリの収奪、という主張にとっては最重要のポイント、つまり狩猟・漁猟・遊牧民の土地は無主地扱いで主権国家が取得してよいとされている、という説は、『万国公法』では一つの学説として紹介された留保付きのものを、確定した他の条件と同じ並びで同じ扱いをしている、という問題も浮かんできた。
この続きは、次回以降でさらに本格的に検討したい。(つづく)
