障がい者福祉とマイノリティの落差〜共生社会概念の崩壊

札幌市共生社会推進条例

第4回札幌市ユニバーサル推進検討委員会(令和6年8月30日)

この回には第3回での議論、ワークションやパネル展、関連団体などの意見を反映したとする修正版が出されます。委員からは、共生社会の中核的な概念についての異議が続出します。障がい者福祉の立場とマイノリティ派の間で落差が大きく議論は収拾が付かなくなっていきます。そのことを山内室長は「どうしても相入れないものは残る」と言いました。

【議事録】
https://www.city.sapporo.jp/kikaku/universal/iinkai/documents/iinkai04-gijiroku.pdf
【資料1】市民ワークショップの開催結果について
https://www.city.sapporo.jp/kikaku/universal/iinkai/documents/04-04_siryou1.pdf
【資料2】オープンハウスの開催結果について
https://www.city.sapporo.jp/kikaku/universal/iinkai/documents/04-05_siryou2.pdf
【資料3】関係附属機関等における主な意見について
https://www.city.sapporo.jp/kikaku/universal/iinkai/documents/04-06_siryou3.pdf
【資料4】(仮称)共生社会推進条例の骨子案作成に当たっての基本的な考え方(修正版)
https://www.city.sapporo.jp/kikaku/universal/iinkai/documents/04-07_siryou4.pdf
【資料5】(仮称)共生社会推進条例の骨子案(修正版)
https://www.city.sapporo.jp/kikaku/universal/iinkai/documents/04-08_siryou5.pdf

共感できない相手も尊重すべきか(ワークショップ意見)

第4回委員会は、第3回で示された原案について同回で寄せられた検討委委員会意見、そして6月15日・23日に行われた①ワークショップ、②8月4日のオープンハウス(パネル展)、③関係団体からの意見を受けて微調整した素案の修正版について検討委員会委員の意見を求めるものでした。

冒頭、担当課長から①〜③の意見をまとめた資料について説明があります。①ワークショップでは次のような意見があったそうです。

○松原推進担当課長 包摂的(インクルーシブ)、共生といった概念は、時にマジョリティがマイノリティを包摂する、マイノリティと共生すると捉えられる落とし穴がある

多様性の尊重は日本の文化や生活に古くから生き続けていると実感しており、あえて条例化する必要はないのではないかマイノリティのためにマジョリティが制限を受けたり、外国人住民が増えたりすることによるトラブルなどのおそれがある

「共感に基づく心のバリアフリー」という文言については、共感できない相手の権利も尊重する必要があるため、注意すべき文言と考える

これらの意見のうち「共感」という言葉が後で盛んに議論されます。2番目の条例化の必要性を疑問視する意見は、当然のこととして無視されました。

ワークショップではこんなこともあったようです。

○松原推進担当課長 その一方で、開催後日、参加者の一人から、関係団体を経由しまして、当日は他の参加者の発言で傷つき、つらい思いをしたといった声が寄せられました。

このことも後に委員会の議論になります。

ヘイトスピーチに罰則を(団体意見)

②オープンハウスのまとめは割愛します。③の関係団体としては「福祉のまちづくり推進会議」「アイヌ施策推進委員会」「男女共同参画審議会」からの意見聴取がありました。「アイヌ施策推進委員会」からの意見を紹介します。

○松原推進担当課長 差別の被害者だけではなく、加害者も当事者となり、この両者が対話を重ね、共感に基づく心のバリアフリーの醸成をしていくこととなる、しかし、実際には、ヘイトスピーチがあることを考えると、対話による解決は困難であり、加害者側への何らかの規制は必要である。

ここでも「共感に基づく心のバリアフリーの醸成」という言葉がでますが、札幌市のアイヌ施策推進委員会は、ヘイトスピーチの発信者との対話は困難で罰則を与えるのみ、と考えているようです。

この他、団体名は伏せられた「その他関係団体等からの意見」の中にも

○松原推進担当課長 アイヌ民族や外国人に関する差別禁止規定や罰則がないなら実効性がないものになる、3誰もが当事者だという点について、当事者、イコール、マイノリティということだと思う、ヘイトスピーチには罰則をもって対処するしかない、行政には積極的な介入を恐れないでほしい、国立市はアウティングを禁止し、ヘイトスピーチも禁止しているので、ぜひ参考にしてほしい、5レイシズムや差別の問題がある中、条例の中身を見るとこれらの問題への対応に関する記載がない、差別は共生社会の実現のための根本的な問題である、といったご意見をいただいております。

との意見があったと報告されました。どのような団体だったのでしょうか。共生社会推進条例に罰則規定を設けて、事実上のヘイトスピーチ禁止条例にする声も委員会には寄せられました。

マジョリティの「普通」が生み出すバリアも問題にせよ

松原課長の説明を受けて、委員会討議が始まり、この委員会で大きな影響力を持つ北原委員が口火を切ります。北原委員は、ここでもマジョリティ対マイノリティ論を激しく展開します。

○北原委員 当事者が感じているものだけではなく、マジョリティが無意識につくり出しているバリアもここにはあるべきではないかということです。

現状には何も問題ないのだ、これでいいのだという肯定している意見ですよね。こうしたものが潜在的にマイノリティが持っているニーズや困り事を発することを抑え込んでしまいまして、これも一つのバリアになっているのです。

マジョリティが自分の感じる普通、あるいは、自分は普通だと思っていることがどこでも通用すると思っているだけでバリアが生まれてしまうというところがある

ここで北原委員は、マジョリティの「普通」がバリアを生み出している、と告発します。

この後、ワークショップなどで使われた「コンセプト絵本」を褒め合う展開が続きますが、佐藤委員のこの発言は、マジョリティ論に終始する北原委員に対するやんわりとした異論であったかも知れません。

○佐藤委員 マイノリティとマジョリティで区別されていますけれども、マジョリティだと思っている多くの人たちにもいろいろな差があるのです。

共生社会というのは、マイノリティやマジョリティという区別なく、みんなが自然にできるようなものの先駆けといいますか、そういうきっかけになるといいなと思いました。

しかし、相内委員は、次のように述べてマジョリティの中の、とくに大人の中にある無意識の偏見を問題にして、気づきを促す取り組みの必要性を訴えました。

○相内委員 ノセントに近い小学生に対しては、色々な情報にそんなに染まっていないと思うので、こちらが伝えたいことを分かりやすい言葉にすることで染み込んでいきやすいと思うのですが、我々のような大人に対してです。

大人に対して分かりやすくというのは、恐らくアンコンシャスバイアスというか、無意識の偏見がもしかしたらこういうところにあるかもしれないという気づきを促した上で実はこういうことなのですという話をしなければならないなと思いました。

この発言には委員たちの「認識している私たち」と「認識していないマジョリティ」という選民思想がほのかに伺えます。

開拓の歴史の肯定につながりかねない

マジョリティの無意識の議論が相内委員の発言で終わったあと北原委員が「前文」の「札幌は、様々な背景を有する先人たちが、それぞれの伝統と文化を紡ぎ、育みながら、先進の英知を取り入れていくことによって、飛躍的に成長してきました」について疑問を呈します。

○北原委員 日本の歴史観、北海道開拓の歴史、先人達への感謝、日本人としての誇り、文化、価値観がすっぽり抜けていると感じるというふうにあります。ここで言う日本人というのは誰のことなのかなと考えたわけです。

そして、先人とは誰か、それから、開拓の歴史というのも現状肯定につながっていくものだと私は受け取りました。こういうところに今話題に出たようなアンコンシャスバイアスが入っていると思うのですね。

札幌市では、本当にそれぞれの人たちが伝統と文化を紡ぎ、飛躍的に成長してくることができていたのかというと、私はそうではないと思うのですね。はり、あまり現状肯定的なことを不用意に出すべきではないのではないかと思うのです。

と述べました。札幌市の共生社会推進の議論で、北海道開拓を肯定的に捉えることはあってはならないことのようです。その上で、札幌の発展も肯定的に受け止めるべきではないと主張します。

これを受けて梶井座長がアイヌ協会の結城委員に意見を求めます。結城委員は、ワークショップの発言で傷付いた人は自分たちの仲間であったかも知れないと前置した上で、

○結城委員 例えば、北海道と名前をつけて150周年といってイベントをやっていましたが、私たちアイヌにとっては150年のタイムロスでもあったのですね。つまり、自分たちらしく生きられない時間がそれだけあったということです。

そして資料には出ていませんが、ワークショップで出された「もうアイヌ差別は無い」との発言があったようで次のように言いました。

○結城委員 そこでもう差別はないと言い切ってしまう人たちがいるということも僕は聞きました。それも市民の意見なのですよね。

また、それも市民の意見なのですよね。例えば、声の大きいマイノリティのために自分たちが我慢させられる、その我慢は何だろうかと考えてみたり、声の大きいマイノリティというのは私たちのことかと、マイノリティ特有に勝手に自分を責めるような自分もいるのだなと今読みながら考えていました。でも、相変わらず差別が全くないという言葉が出てきていて、その人たちには差別が全く見えていないと思うのです。

このように前文の歴史認識に関わる部分に強い意見が寄せられますが、梶井座長は原案を守るようにこうまとめました。

○梶井座長 パブリックコメントでは、差別なんかはないのではないか、こんな条例は必要ないのではないかというような厳しいご意見も多く、ある意味、そういうご意見もあるのだということが分かっただけでもよかったと思います。それに、今、結城委員がおっしゃったように、それも多様性の一つですので、色々な意見が出てくることに意味があるのだという太っ腹でいきたいと思っています。

このテーマは、後に蒸し返されて議論になりますが、梶井座長は次のように述べて原案を守りました。

○梶井座長 ここではいろいろな先人のことを広く言っているのであれば、様々な背景を有する先人たちがそれぞれの歴史と文化を育みながら、先進の英知を取り入れていくことによってといいますか、先人たちが背負っているものをあまり限定的にしないで、あえてぼんやりとさせるということです。

誰のための「共感」なのか

続いて議論は山口委員が「この条例がまさに共感力によってつくり出されていると感じます」と発言したことから「共感」にテーマが移ります。

『基本的な考え方』修正版は、「多様性を尊重したまちづくり」

「本条例においては、当事者の限定化や固定化につながらないよう配慮し、「誰もが当事者である」ことを前提とした内容とすること、加えて、各人が対話を重ね、それぞれの違い等について理解を深め支え合う『共感に基づく心のバリアフリーの醸成』に寄与する内容とすることが求められます」

と記しますが、ワークショップで異論が寄せられたことで、事務局は「共感 : ここでは、相手と感情を共有したり、相手の心情に同調・同情すること(シンパシー)並びに相手の立場になり相手の意思や感情を共有すること及びその能力(エンパシー)をいう」という注釈を付け加えました。

これについて柳谷委員は異議を出します。

○柳谷委員 共感できない相手の権利も尊重する必要が前提にあった上のバリアフリーというのはどのレベルのバリアフリーなのだろうと考えてしまうところもあって、それに対し、資料4の共感というところの補足で、シンパシーだけではなく、エンパシーという意味も含まれていますよということだと思うのです。

でも、共感に基づく心のバリアフリーの醸成という言葉から相手に対して共感してもらえる範囲の中でのコミュニケーションみたいな感じで私は受け取ってしまいましたし、正直、それ自体が何かもうバリアなのではないかという感覚もあるのですよね。

先ほど北原委員もおっしゃっていたように、マジョリティ側のバリアみたいなところの話にもなるかもしれないのですが、ちょっともやっとする文章かなと個人的には思いました。

この条例の本質的な問題に、高齢者から外国人旅行者までを「共生社会」という単一概念で括ろうとするところからくる無理があり、それをできるだけ、批判を受けないような言葉で言いくるめようとしますが、ここにきて綻びが見えてきます。

ここでも梶井座長は条文を守ろうとします。

○梶井座長 共感自体がなかなか難しい概念であると思うのです。ただ、一歩進めて、シンパシーのほかにエンパシーもあるのだというところまで説明したわけで、これでぎりぎりといいますか、「もやもや」が「もや」までになったかなということで留保させていただきたいと思います。

2月議会に条例提出というスケジュールがあり、今回の会議での大幅な変更は避けたいとする座長の議事進行が今回は目立ちます。

障害のある人、障害のない人の立場の違い

「共感」という概念について梶井座長は「留保」で打ち切ったはずですが、佐藤委員がこう言います。

○佐藤委員 シンパシーやエンパシーとはちょっとずれるのですが、この文章の中に「相手の心情に同調・同情すること」と書かれています。でも、この同情については嫌な感情を持って受け取ってしまう方がいるのではないかなと思うので、これは省いてもいいのではないかなという気がしました。

つまり削除してしまえば良いというのです。しかし、精神保健の立場から池田委員が蒸し返します。

○池田委員 私は精神保健領域の仕事をしておりますので、やっぱり共感というのは大事だなと思っています。ただ、エンパシーを持って理解するのは結構難しいことでもあります。

相手の立場に立ち、今どう考えているのかを推察する力なのですが、恐らく求められているのはそういうものかなと思うのですよね。ですから、共感というただし書をしなければいけないような言葉ではなく、相手の視点に立って考えるとするほうが分かりやすいかもしれないと考えました。

ここでこの問題の難しさを感じ取った梶井座長は、次のように述べて削除をすすめる佐藤委員に同調しました。

○梶井座長 「共感に基づく」という言葉自体がなくても池田委員がおっしゃった相手の立場に立ち、相手の視点に立ち、それぞれの違いについて理解を深め支え合うというところに対応するわけですよね。つまり、「共感に基づく」とあえて言わなくてもここはいいのではないか、つまり、いろいろな思惑や解釈があまり入り込まないようにする工夫も一つ必要なのかなということです。

障がい者、そして高齢者も、自身の心身に「障害」を抱えた人たちです。一方、アイヌ民族やLGBTは、自分自身には何の障害ない人たちです。強いて言えばそれらの人たちを囲む社会に問題があります。「共生社会」という共通目標から始まった検討委員会ですが、この後、自身に障害のある人と無い人の立場の違いが議論とともに大きくなっていきます。

共感はマジョリティ側の主観

いったんは削除の方向にすすんだ「共感」ですが、ここで北原委員が発言を求めます。

○北原委員 共感という言葉や思いやりなどが議論になるときによく扱われるのは、思いやりや共感というのはマジョリティ側の主観の問題で、共感を持とう、思いやりを持とう、いや、やめておこうという何かの選択があるということなのです。

そうではなく、もちろん共感や思いやりがあってもいいのだけれども、それが持てない場合でも人権は尊重されなければいけないというところが揺るがなければ曖昧さが消えるのではないかと思っていたということです。

影響力の大きな北原委員の発言で、この「共感」を削除できなくなった梶井座長は、浅香委員に発言を許します。

○浅香委員 「人は皆」から言わせていただくと、年齢、性別、障がいや病気、言語、宗教、文化とありますが、障がい者にとっても、最低、このぐらいは関わってくるのかなと思っていました。プラスして、身体障がい、知的障がい、精神障がいもそうですが、違いという言葉遣いです。

違いを理解する、認め合うということは、違うのだよと逆の方向から言っているような気がするのです。ですから、少なくとも違いという言葉を入れないでほしいと思っています。

違いを認め合う———札幌市の共生社会条例では一丁目一番地に来る第次な観念ですが、浅香委員のような障がい者福祉の立場からは、それは止めてほしいというのです。障がい者から外国人まで単一理念で括ろうとした条例の無理が露わになってきました。

梶井座長は、次のように述べて幕引きを図ります。

○梶井座長 違いという言葉は結構使っていますが、必要最小限にしたほうがいいのかもしれないですね。違いという言葉がなくても通じる場合は省いていたほうがいいというのはおっしゃるとおりですね。

しかし、第6回委員会に提示された修正版では条例の基本理念の(2)から「その違い等」が削除されましたが、「基本的考え」の「①多様性を尊重したまちづくり」には、6か所にもわたって「違い」が出たままになっています。

そして最終案で「共感」は、下記の赤字のようになりました。担当職員は相当頭を使ったのでしょうが、果たしてこれは市民が行政職員に求めている仕事なのか? という疑問も湧いてきます。

崩壊していく共生社会の理念

続いて発言した宮入委員は、この回から急に差し込まれた「包摂的」に異議を唱えます。

○宮入委員 全体を通してすごく分かりやすくしようと言葉を吟味されていると思いますけれども、逆に「包摂的」という表現のがより浮き上がって、分かりにくさがあると感じてしまいました。やはり、どこかに解説をつける必要があるかと思います。

この他、相内委員は、理念法であっても実効性を担保する仕組みづくりを求めました。続く児童福祉の立場から相内委員は、条例の正式名称にもなった「つながり合う」に異議を出します。

○相内委員 特に私が主に関わらせていただく児童福祉や精神保健福祉の分野の方々にはつながらないことで安らかな時間を過ごせる方々もいたり、そういう時期があったりします。

「つながり合う」とは全く別物だとはよく分かるのですよ。ただ、そういうつながることが苦手だなと思っている方がこれを目にしたときに誤解を与えてしまうおそれがあるということです。

道下委員も「包括的」について異議を呈しました。

○道下委員 私も包摂性という言葉に違和感を持ちましたし、もっと分かりやすい言葉遣いのほうがいいかなと思いました。スマホで意味を調べてみようかなと思うぐらいで、こう書かれているだけでは、うんとなってしまうなという思いがありました。

こうして事務局が示した新条例名称「札幌市誰もがつながり合う共生のまちづくり条例」についても「長すぎる」との声が多出したことあわせて議論はまとまりのつかないものとなっていきました。

「相入れない部分が残ってしまうもの」を条例にして良いのか?

札幌市の共生社会推進条例について積極的同調者を集めただろう会議でしたが、議論は破綻していきいます。そのことは札幌市が意図する「共生社会」の崩壊ですが、最後に登場した山内ユニバーサル推進室長はこう言います。

○山内ユニバーサル推進室長 皆さんには色々な思いがあったようで、色々な意見をいただいたことは非常に重い宿題となったなと感じています。

ただ、我々もこの取組をやる中でどうしても相入れない部分といいますか、分かってほしいけれども、分かってもらえないところはどこまで行ってもきっとあるのだろうなと思っています。

でも、そこを埋めようとするのではなく、とにかく色々と話をして、相手の話を聞いて、それぞれのことを理解する、会話を積み重ねるということに尽きるのかなと思います。その上で、共感という言葉についてもありましたが、どこまで共感できるのか、それぞれの価値観を認識しながら前に進めば、もう少し違う社会になっていくのかなと感じながら、今日ここまで来たと考えています。

ここで、この条例についての最大の疑問が湧きます。「どうしても相入れない部分が残ってしまう」ものを条例という法律に準じたものにして良いのか? という疑問です。

○山内ユニバーサル推進室長 今日、色々な立場の方から頂いたご意見を踏まえ、我々なりに消化し、次の12月のときに我々としてこう考えましたというものを出させていただきたいと思います。

このように室長はいいますが、12月に示されたものは、数カ所の文字修正があっただけで、ほとんど今回のものと同じです。

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