海堂 拓己
提出した陳情書は下記リンクへ
https://hokkaido-so.com/wp-admin/post.php?post=348&action=edit
行政は思想団体であってはならない
札幌市厚別区の市民・海堂拓己と申します。私は、市民自治の立場、まちづくりの主体である市民の立場から、意見を述べさせていただきます。
「札幌市、誰もがつながり合う共生のまちづくり条例案」———長いので「共生条例」と呼ばせてもらいますが、私は、この共生条例について、多岐に渡る問題を陳情書で指摘しました。時間の限られたこの場では、核となる懸念に絞ってお話しさせていただきます。
まず、私は、法律に準じた条例は、必要最小限でなければならないと考えます。
一方、この条例は、「誰もが互いにその個性や能力を認め合い、支え合う、多様性が強みとなる社会」を目指すものと言います。
条例が無ければ、そうした社会は実現できないのでしょうか?
条例とは、具体的な課題・目的に対する、しっかりとした根拠に基づいた、明解な解決手段であるできです。
しかし、札幌市は、この観念的な「共生社会」で、少子・高齢化から、地域意識の希薄化、そして外国人の問題まで、すべての課題が解決できるかのように言いますが、それは現実性のない絵空事です。それ自体特定思想であり、イデオロギーです。
「共生社会になれば、あらゆる社会問題は解決する」というような空想論を、個人が意見として持つのは自由です。しかし、公器である行政が持つべきではありません。
そうであるのに、札幌市が条例にしてでも強制しようというのであれば、憲法に保障された、私たちの思想・信条の自由に対する侵害というしかありません。
一方、先の代表質問で秋元市長は、条例は「共生社会に向けた議論の拠り所」、「そういうまちだということを宣言する、そういう条例であります」と答えました。
そうであれば、いよいよ条例である必要はなく、「宣言」でよいことになります。条例でなければならない必然性は、まったく見出せません。
そもそも条例が言う「共生社会」には、大きな問題があります。
私ははじめ、この条例を、障害者や高齢者などが、暮らしやすい社会を目指す条例だと思っていました。
ところが、市長の答弁からは、「札幌市を成長させていくために必要な、高度金融人材の外国人が、暮らしやすい環境を整えるために必要だ」としか聞こえませんでした。
高度金融人材は、障害者から見ると健常者です。とても恵まれた人たちです。それなのに「共生社会」という枠組みで、彼らを障害者と同じ部屋に入れることは、正しいことでしょうか?
社会の助けがないと生きてはいけない人たちと、マイノリティであっても健常者が、同じ部屋に入れば、健常者の主張ばかりが大きくなることは、火を見るより明らかです。
マイノリティ健常者を隠れ蓑にして、「共生条例」が、障害者や高齢者の切り捨てに利用される恐れを強く懸念します。
昨年12月の「第5回ユニバーサル推進検討委員会」に示された条例の「素案」から、今の「条例案」に移る中で、「その違いを理解し合い」という文言が削除されました。
これは、第4回委員会での、札幌市身体障害者福祉協会・会長である、浅香委員の「違いという言葉を入れないでほしい」との求めに応じたものです。障害者には「違い」という言葉に傷付く人もいるのです。
一方で「違いを尊重する」ことは、共生条例の基本理念である「多様性」の中核です。
その「違い」に対して、障害者からダメ出しされた時点で、「共生社会」の理念について、ゼロから考え直すべきだったと思います。文言の削除で済む問題では決してありません。
戦前は、行政が思想団体化したことで、多くの災厄が起こりました。現在の地方自治制度は、そうした反省の上につくられています。
繰り返しますが、行政は思想団体ではありません。「共生社会があらゆる社会課題を解決する」との空想的観念論を、法律に準じた条例にして、市民に強制することに強く反対します。
以上です。ありがとうございました。
質疑応答
Q【川田委員】「障害者には『違い』に傷付く人もいる」ということについて教えてください
実は、ぼくの近親に知的障害と身体障害の二つの障害を持った者がいます。彼は、左半身が軽く麻痺しているので、遠くから見ても歩き方が「違い」ます。
でも本人は懸命にリハビリをして、「どうだ、他の人ともう変わらないだろう」と言うんです。ぜんぜん直らないんですが、「そうだね。普通と変わらなくなったね」と言ってあげます。彼はことあるごとに「自分は他の人と同じだ、もう変わらないのだ」言います。
同じ「違い」であっても、本人の誇りや、プライド、アイデンティティにつながる「違い」があれば、ぼくの親族のように「無くしたい」「認めたくない」と思っている「違い」もあります。ベクトルは真逆です。それなのに「多様性」ということで一括りにしてしまうのは無理があるし、障害を持つ人にとって残酷だと思います。
どうしてこんなことになったのか? この条例を審議した「ユニバーサル推進検討会議」の議事録を読みました。すると、社会をマイノリティとマジョリティの二つに分断して、「マイノリティの目線で社会を書き換えることが共生社会だ」と言って盛り上がっていました。恐ろしい考え方ですが、札幌市の担当者もその考え方に賛同して、この条例ができました。
札幌市は、高齢者も、障害者も、子どもも、女性も、外国人も、アイヌの方々も、みんなまとめて「マイノリティ」という一つの部屋に入れる。マイノリティの中には、ぼくの親族のよう障害者もいれば、外国からの高度金融人材も含まれるそうです。そうやって共生条例ができて、よーい、ドンすれば、マイノリティ健常者の声だけが大きくなるのは、当然です。
健常者だけどマイノリティな人たちは、自分には問題が無く、生きづらいのは社会に問題があると考える人たちです。共生社会の中で彼らの声が大きくなっていき、彼らの視点で社会の書き換えがすすむ。これが欧米で混乱をもたらしている原因です。
昨年ですが、彼が介護保険制度と障害者措置制度の間に落ち込んで、ちょっとしたトラブルがあったんです。彼が今世話になっている施設の問題だったんですが、ぼくはそんな問題が起きていることをぜんぜん知りませんでした。彼が言わないんですよ。やっぱり面倒をみてもらっているという弱い立場だからですね。
先生方に聞きますけど、この「共生社会推進条例」ができれば、うちの親族のような立場の者が救われると思いますか? 決してそうは思えません。
お答えになったのかわかりませんが、よろしくお願いいたします。
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