北海道セトラーコロニアリズムに物申す 第3回―その3(最終回)

北海道セトラーコロニアリズム

北海道開拓から除外されたアイヌ?

未完を根拠として

次に検討するのは、西が「蝦夷地を植民化し、和人が開拓事業を行なう正当性を述べている」とする『経済学』からの文章なので、平野の主張の核心に当たる。しかし先に触れたようにこの論考は未完であり、解説によれば、「本稿本は本全集で初めて公表する」(『西周全集』第二巻、解説、738頁)ということから、公の目に触れたのはこの書物の刊行年、1966年が最初である。

平野は執筆時期を1860年代と推定しているが、解説では書き始めたのは1877年ごろとしている。1877年では、明治政府の初期のアイヌ政策に影響を与えたと主張するのは難しくなるだろう。

さらに、未完の「経済学」(一八六〇年代)では、日本の国家が蝦夷地を植民地化し、開拓事業を行なう必然性を次のように述べている。「土地ノ広サ八其ノ以前ノ國ニ野蛮カ住タ時ヨリモ、百倍ノ人數ヲ養フ事カ出來ルト云フ……別ナ辞デ云ハフナラハ、開ケタ人ハ野蛮ヨリ百倍ノ人数ヲ養フ事カ出来ルト云フコトナリ」(43)(平野『思想』18頁)

要するに、文明人と野蛮人には農業生産性において大きな差がある。文明人なら同面積の土地でも野蛮人が耕す場合の百倍の人間を養うことができる生産性を有する、という意味のことを言っているのだ。

大きな主語

これを受けた平野の文章はこうだ。

以上のような思想に基づき、アイヌモシリの占有やアイヌ社会の破壊は侵略や不法行為ではなく、また近代化の犠牲でもなく、必然的な「文明化」の過程だと明治日本は主張していた。(平野『思想』18頁)

「以上のような思想に基づき」というのは、これまで検討した内容(無主地論と遊牧・狩猟民の天賦の権からの排除等)および、直前の「未完の『経済学』──西一個人の、公刊されなかった1870年代後半の私的な覚書──に書かれていた内容である。

この覚書は、西自身の頭の中にあった着想であって、当時誰かに読まれて共有された、あるいは影響を与えた、というものではない。しかも「非農耕民は労働という規範を満たさないから、ヒューマニティから排除され、原有の権利を否定された」という考えは、西が発した言葉に由来するものではなかった。

そうしたものを総動員して、「アイヌ社会の破壊は、(中略)必然的な「文明化」の過程」と「明治政府が主張していた」と平野は述べるが、この明治政府の主張にも注がない。典拠が示されていないから、いったいいつどこで、明治政府の誰が主張したのかを、検証しようがない。

西が個人的に何を思考し、書きとめていたか、ということと、それが実際に明治政府の公式な立場・政策の正当化として機能していたか、ということには、まったく別の証明が必要である。

平野の立論に未公刊の覚書を複数含む以上、ここまでの主張をするには、この思想が誰かに影響を与えた、閣議や建議書で言及された、といった痕跡が必要だ。平野はそれを示さないまま「明治日本は主張していた」と主語を大きくして地の文で断定してしまっている。

典拠のない主張

さらに深刻な問題は、これに続く次の引用文だ。

アイヌは大地の恵みに依存して生きてきたに過ぎず、労働という自然の改良作業をとおしてその生産性を高め、より多くの住民を養うことはなかったのだから、日本の植民地政策はこの資源豊かな大地を「無知で未開な人種から救い出した」と断言して憚らなかった。(平野『思想』18頁)

「無知で未開な人種から救い出した」と断言して憚らなかった、とはずいぶん強烈な言葉である。だが、この鍵括弧で囲まれた部分には注がついていない。鍵括弧で囲まれた以上、どこかからの引用と思われるが、典拠を示していない。こんなことが学術論文のルールからして許されるのだろうか。

畳みかけるように、次に「和人移民こそが、開拓という重要な任務を担う歴史的主体なのだという論調が、日本社会の主流を占めていくことになる」とここでもいきなり日本社会の話しに格上げされている。この論が社会の主流を占めていたと言うのなら、せめて当時の新聞や雑誌記事の2、3も引用すべきではないだろうか。

行き先不明の注

そして最後に極めつけがくる。これまででも十分に問題をはらんだ平野の議論であったが、「開拓使設置50周年を記念して1918年に北海道庁が編纂・出版した『北海道史』からの引用、とされるものである。

 アイヌは大多数は旧慣そのほかについては、未だ猶かつ野蛮蒙昧の域を脱するに至らなかった……そもそも開拓なる事業は、一定の文化段階に達した民族において始めて所期し得るのであって、蝦夷の如き、未だ野蛮時代を脱しない民族の手によりて、北海道の開拓を 望むのは無理であることは当然であるが、北海道の付近にあって蝦夷と接触する民族の内で、その任に耐え得る文化を有するものは和人の外にない(44)(平野『思想』18頁)

この注番号44には以下のように記されている。

(44)『北海道史』第一、北海道庁(一九一八):三一五頁。(平野『思想』31頁)

図書館でこの本を探し当てて315頁を開いてみたら、江戸時代のまったく別のことが書かれている。第三編「前松前氏時代」第三十六章「外国船の出没」のうち、[五]「ベニヨーウスキーの警告」という項目だった。

内容は、18世紀後半、択捉・得撫島周辺へのロシア船来航や、ロシアの捕虜となっていたハンガリー人ベニヨーウスキーがカムチャッカから脱走する途中で蝦夷地に立ち寄り、長崎のオランダ商館へロシア南下の危険を警告した、という逸話である。時代は松前藩時代(江戸期)、内容もロシアの脅威をめぐる話で、アイヌの処遇や和人による北海道開発の正当化とは、どこをどう読んでも関わりがない。

そもそもこの『北海道史』を手にした時から嫌な予感はあった。通史はこの第一巻しかないのだ。北海道史というのはいくつかシリーズがあるが、いずれも大部であり何巻と書棚を大々的に占拠しているのが普通であるのに、このシリーズはたった一冊しかない。最初の北海道史編纂事業は第一巻を出したのみで中断してしまったのだ。

北海道庁のホームページでも、『北海道史』の編纂事業自体、1915年に「開道50年」記念事業として始まったものの、明治維新以前までを叙述した通史一巻と付属地図を刊行しただけで、1918年に中断したと書かれていた。

つまり平野が注44で挙げる『北海道史』第一は、当初計画されていた通史の全体像を完成させないまま打ち切られた、未完に終わった編纂事業の、唯一世に出た巻だったが、残念ながら明治維新にまでは届かず、江戸時代までの記述で終わっているのである。

原文発見

そこで、国会図書館のデジタルコレクションで検索したら、「……そもそも開拓なる事業は、一定の文化段階に達した民族において始めて所期し得るのであって……」以下は、実在することがわかった。

ただし、平野が注44で示した『北海道史』第一ではない。『新撰北海道史』第2巻(1937年)、30頁である。しかも、その箇所は「第二章 和人の移住」「第一 移住の濫觴」という項目で、安東氏時代、すなわち十二~十三世紀ごろの和人移住の経緯を説明する文脈のなかにあった。

念のため、平野が注44で書誌情報として挙げていた『北海道史』第一(北海道庁、1918年)そのものにも、あらためて当たってみた。すると、同じ「第二編 安東氏時代」「第二章 和人の移住」の書き出し(31頁)に、確かに同様の趣旨を述べた一節があった。

 北海道の開拓は、知識低き蝦夷によりて、之を成すこと能はず、必ず之を他の優等人種に俟たざるべからず。而して北海道の附近にありて蝦夷と接触する優等人種は、和人の外に之なきを以て、其開拓の任の和人にあるは多言を要せざる所なり。

「蝦夷ではなく、和人という『優等人種』でなければ北海道の開拓はできない」という論旨の核は、確かに平野が引用した「そもそも開拓なる事業は、一定の文化段階に達した民族において始めて所期し得るのであって……」と重なる。

つまり、平野が注44で書誌情報として示している『北海道史』第一には、ほぼ同内容の一節こそ存在するが、彼が実際に「 」で括って引用した文言そのものは存在しない。

引用行為そのものの改変

一方、前半部分――「アイヌは大多数は旧慣そのほかについては、未だ猶かつ野蛮蒙昧の域を脱するに至らなかった」――は、同じく『新撰北海道史』(1937年)第3巻、670頁に見つけることができた。以下全文を引用する。

 斯くて一應之を歴史的に見ると舊來松前氏の綏撫策と幕府のそれとは格段に相違し、幕末に至り前後二回の幕府直轄時代には、彼等 の制禦に對しては頗る意を用ひて、その地位を著しく向上せしめ、その生活も亦高められたのであるが、それにしても主として沿海地帯にて漁獵に從事するものは、大體漁場請負人の自由に委せられ、山野に狩獵を營むものと共に、大多數は舊慣その他については、未だ猶且野蠻濛昧の域を脱するに至らなかつた。(太線部分が平野の引用部分)

平野が引用しているのは最後の部分だが、原文では、主語は、「沿海地帯にて漁獵に從事するもの」+「山野に狩獵を營むもの」の「大多数」と、経済活動によって限定された集団である。

つまり「(沿岸漁労民・山野狩猟民の)大多数は」という限定つきの主語であって、「アイヌという民族全体の大多数は」ではない。しかも、この一節の前後には、明治以前からアイヌの生活が改善してきたという記述もあり、原文の趣旨は「アイヌ全体が野蛮蒙昧のままだった」ではなく、「生活形態によって明暗が分かれていた」という、もっと限定的で複雑な話であった。

それを平野は「アイヌは大多数は旧慣そのほかについては、未だ猶かつ野蛮蒙昧の域を脱するに至らなかった」と引用し、冒頭に「アイヌは」という、原文にはない主語を補っている。これによって、経済活動で限定されていた対象(沿岸漁労民・山野狩猟民)が、民族全体を指す主語にすり替わっているのである。これは今まで指摘してきた、ミスともとれるようなものとは違うレベルの問題だ。

引用文の主語をすり替えることによって、限定された経験的記述を、民族全体についての一般化された記述であるかのように見せかけた、引用行為そのものの改変である。

ミスではありえない

整理すると、注44が示す出典情報は、書名(『北海道史』第一ではなく『新撰北海道史』)も、巻数も、頁数(315頁ではなく30頁)も、いずれも正しくない。そのうえ、引用文自体が、『新撰北海道史』第3巻からの一文からの改変された一部と、第2巻の中世の文脈の文言という、別の書籍からの引用を、「……」でひとつなぎにしたものだった。

しかも注では、別の典拠であることに触れていない。こんなルール違反の引用と注記間違いの組み合わせが、偶然起こったミスとはちょっと考えられない。何かしらの意図があったのかと思うが、しかし何のためにこんな入り組んだ、奇っ怪な引用をしたのかわからない。

ここでは、開拓使設置50周年という節目を飾るとまで断っていた引用の、しかも平野の議論のなかでもとりわけ強い調子で明治政府を非難するこの一節が、これだけの誤りを重ねた形で論考のなかに収まっていた、という事実は強調しておく必要があろう。これはさすがに、学術論文としては看過できないレベルの問題である。

このように、平野の主張の中核にあたる、明治政府は無主地論を西周の『万国公法』その他の法理から学んでアイヌから土地を奪うことの正当性を獲得した、というその過程を論じる議論は論理が崩壊していることが明らかになっただろう。

終わりに

当初は、後半も分析してもう少し長く書くつもりでいたのだが、ここで一区切りつけることとした。ここまででも、平野の議論の信憑性のレベルは十分におわかりいただけたかと思う。堅固な史料や事実のもとに組み立てられた主張ではなく、まず、主張したいことがあってそれに合う史料を強引に引っ張ってくる。ここで分析した平野の無主地論は、そのようにして組み立てられたものだと感じている。

率直に言って、自分がここまでやれるとは思わなかった。北海道セトラーコロニアリズム論の論客である平野克弥の主要な議論-無主地論を西周の媒介により明治政府が採用してアイヌから土地を奪う法的根拠を得たーを、自分のような一介の道民が論駁できるとは思ってもみなかった。

正直に告白すると、AIには大変助けられた。英文や漢文など、AIに投げれば一瞬で翻訳してくれる。AIがなければ、この長さの連載を短時間で、しかもにわか仕込みの知識でここまで書くことは不可能だった。

実際にこの分析をやってみて、このような脆弱な言説によって北海道の開拓史が暗黒化されて語られていたのか、という衝撃はある。その反動は今じわじわときていて、現在消化中だ。ただ現時点では、色々な意味でお腹一杯になったので、この作業を続ける気力が萎えてしまった、というのが正直な所だ。

ここまで読んでくださった方々には、学術だからと言って頭から正しいと信奉するのではなく、おかしいと思うところはその直観を大切にして、ぜひAIに助けてもらってでも、どんどん自分なりに深掘りしてみることをお勧めする。AIのおかげで、学術の閾がずいぶん低くなったことを実感している。こんな素人の駄文に長々とお付き合いくださりありがとうございました。また機会があれば、続きを書いてみたいと思っています。 (終)

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