高橋はるみの洞爺湖サミット①

北海道百年記念塔はなぜ解体されたのか?

通産省キャリア

実質的に記念塔の解体が決定したのは平成30(2018)年12月の「ほっかいどう歴史・文化・自然『体感』交流空間構想検討会議」の報告書であり、これを受けて北海道知事が解体を正式決定した。その知事は高橋はるみ氏である。

北海道百年記念塔は、昭和43(1968)年の「北海道百年」を記念するために北海道開拓記念館と対として建設された。前述した如くこの北海道開拓記念館は、平成27(2015)年に廃館となり、北海道博物館となった。その起点は平成20(2008)年、当時の知事が選挙公約として打ち出した「北海道ミュージアム構想」である。その知事は高橋はるみ氏である。

北海道百年記念塔がなぜ解体されたのか。その理由を探ろうと思えば、高橋はるみという人物を探らなければならない。

高橋氏は、平成15(2003)年4月の統一地方選挙で北海道知事に選ばれた。この知事選を特集した『財界さっぽろ』(2003年・3月号)に詳しく経歴が紹介されている。それによると、高橋氏は昭和29(1954)年1月6日に富山県富山市に生まれ、一橋大学経済学部を卒業後、昭和51(1976)年に通産省(現経済産業省)に入省。大西洋国際問題研究所研究員(パリ在住)、中小企業庁長官官房調査課長、通産省貿易局輸入課長、中小企業庁経営支援部経営支援課長とキャリアを重ね、平成13(2001)年12月に経済産業研修所長となった。同年の中央省庁改革で通産省が経済産業省になると、第一号の北海道産業局長となり、北海道と縁を結んだ①。

先輩には、女性初のキャリア官僚となった坂本春生氏がおり、昭和61(1986)年に女性初の地方支分部局長として札幌通商産業局長(北海道産業局の前名)になり、北海道の将来を構想する官民共同プロジェクト「明日の北海道を拓く200人委員会」を組織して62年6月に提言書を発表した②。道内各界から200人ものキーパーソンを集めて行った坂本氏の活動は全国的にも注目を集め、道内でも時の人となった。高橋氏はこの坂本氏の好印象を上手に引き継いだ。

①『財界さっぽろ』2003年3月号32-33p、②札幌通商産業局編『明日の北海道を拓く-明日の北海道を拓く200人委員会中間報告』財団法人通算産業調査会・1987

富山の名門

高橋氏は北海道産業局長時代に「北海道スーパークラスター振興戦略」を打ち出し、ITとバイオテクノロジーを核とした産業振興戦略を打ち出した。高級官僚には見えないチャーミングさで道内経済界の人気を集め、堀知事から副知事の要請を受けたり、桂信雄札幌市長から後継者の打診を受けたりしたともいう。経産省にとって旧通産省からの変化を印象づける売り出し中の女性官僚として、将来は女性初の事務次官との声もあったと『財界さっぽろ』は伝えている。

家族を見れば、夫で一橋大学の一年先輩の高橋毅氏は財務省の官僚である。ウイキペディアには主に国際金融畑を歩いたことが書かれているが、確証が得られないので取り上げないが、札幌生まれで、中学校2年生まで道教育大学附属中学に通っていたことは確実である。

祖父は官選初代富山県知事を務めた高辻武邦氏。高辻氏は東京帝国大学から内務省に入り、昭和12(1937)年から14年まで道庁の学務部長になっている。母方の祖父の新田與一氏は日本海ガスの創業者、高橋の父の新田嗣次郎はその2代目社長である。高橋はるみ氏は、高辻家、新田家という富山県を代表する名家が結ばれて生まれたプリンセスであり、日本を支配するエスタブリッシュメントの一人である①。

この項目は①『財界さっぽろ』2003年3月号32-33p ②高橋 はるみ『はるみ知事の夢談義 なっとく!道州制』ぎょうせい・2005等 参照

渦巻く行政不信

さまざまな声かけがありながら、経産省で定年まで勤めたいと希望していた高橋氏だったが、平成15(2003)年の北海道知事選挙にニセコ町長の逢坂誠二氏の出馬が取りだたされてから状況が一変する。現職の堀達也氏は、社会党知事の横路孝弘氏の後継ながら、党派色を薄めて自民党との連携を強め、自民党道連は堀知事推薦でまとまろうとしていた。そこに逢坂氏出馬の報が入り、「堀知事で選挙に勝てるのか」との声が上がったのである。

混乱の始まりは平成14(2002)年9月、横路知事の後継として初当選以来支持を続けてきた民主党が3選不支持を表明したことだった。堀知事の2期目は自民・民主の相乗りだったが、堀知事が自民党寄りになったとして、三行半を突き付けたのである。民主党の支持母体である連合北海道も、「道民が期待しているのは新鮮な候補である」といってこの決定を後押しした。この時、すでに逢坂擁立が出来上がっていたのかもしれない。

平成バブル崩壊以降、政治不信、行政不信が高まっていたが、平成10(1998)年2月に大蔵省の高級幹部が銀行からの過剰接待を受けていたと大阪地検特捜部が強制調査を行うと、「ノーパンしゃぶしゃぶ」というキャッチーな話題もあって大スキャンダルとなった。同じ頃、北海道では北海道警察が架空の領収書などを捏造して裏金をつくり、遊興費に回していたことが明らかになり、これも全国的な大問題となった。

マスコミはありとあらゆる機会を捉えて役人批判を煽り、国民の行政不信はピークに達していた。道庁出身の堀知事は既存勢力、利権側の人物と見られたのである。

一方で逢坂町長は、ニセコ町出身で倶知安高校から北海道大学に進んだ道産子。平成6(1994)年に35歳で全国一若く町長となった。平成10(1998)年に全国で初めて自治基本条例を制定して注目を集めた。官僚批判が渦巻く中で、逢坂氏は全国的にも地方自治のニューリーダーとして期待されていた。

この項目は①相内俊一監修『主役交代 ひと目でわかる北海道政治地図2004』北海道新聞情報研究所・2004 ②逢坂誠二『町長室日記─逢坂誠二の眼─』柏艫社・2004 ③北海道新聞連載<乱 知事選>等参照

堀知事三選断念

民主党の動きが伝わると、「堀知事では民主党が担ごうとしている逢坂町長には勝てない」と町村信孝、中川昭一の両代議士が堀知事三選反対を表明し、平成15(2003)年1月9日に町村信孝代議士が自民党道連を代表して高橋氏に出馬要請を行った。

この打診に対して高橋氏は「堀知事が、三選についてどういうお考えなのか。このことが大事なこと」と伝えた。その堀知事は、1月16日に記者会見を開き、三期不出馬を表明する。かくして外堀は埋まり、2月5日に高橋氏は記者会見を開き、知事選へ立候補を正式に表明した。

道内政界を無視した国会議員の頭ごなしの高橋氏擁立に道議からは強い反発が巻き起こった。本来なら高橋候補を支えるべき道議会自民党の重鎮で議長を務めていた酒井芳秀氏は「国会議員がごり押しした候補選考は納得いかない」と知事選に名乗りを上げた。

堀知事の不出馬を受けて副知事の磯田憲一氏が立候補を表明する。磯田氏は、堀知事のふところ刀で、「時のアセス」など知事の看板政策の多くを立案したとされ、庁内に支援者が多かった。磯田氏は堀知事の後継指名を期待していたと言われ、知事の三選不出馬を受けて名乗りを上げたものである。『北の国から』で全国的な知名度をもつ脚本家の倉本聰氏が強く支援した。2人は賛否を呼んだ道の「試される大地」キャンペーンの仕掛け人だった。

弁護士の伊東秀子氏も無所属として挑戦を宣言する。伊東氏は共産党に属していたが、平成2(1990)年の衆議院選挙で社会党の候補として旧北海道1区で当選した。しかし、平成7(1995)年の道知事選に社会党から除名処分を受けながらも自民党・新党さきがけの支持で立候補して堀知事に敗れる。平成11(1999)年の知事選にも挑戦した。伊東氏の、共産党→社会党→自民党という変遷は、この時代を象徴するものだった。

この項目は①相内俊一監修『主役交代 ひと目でわかる北海道政治地図2004』北海道新聞情報研究所・2004 ②北海道新聞連載<乱 知事選>等参照

逢坂辞退

この他、固い地盤を持つ共産党の若山俊六氏、山田得生氏、上野憲正氏、つづき利夫氏が立候補し、総勢8名の激戦となった中で、高橋氏の強みは強力なバックアップ。『財界さっぽろ』2003年4月号の「高橋はるみ・豪華な応援団」との記事を見ると、後援会には道経連、道経済同友会、同省子会議所、北農中央会、道指導漁連の会長が名を連ねる。その他、医師会、歯科医師会、建設業協会、観光連盟など、およそ道内で考えられる経済団体・業界団体が名前を揃った感があった。そして同誌は翌年小泉政権での自民党幹事長となる武部勤氏を高橋陣営の最高責任者として紹介して「絶対に勝つ」とのコメントを拾っている。

このようにして平成15(2003)年の知事選は、高橋対逢坂の二強対立になるかと思われが、2月27日になって逢坂町長が知事選不出馬を表明する。「党派色が強くなりすぎた」が理由であった。民主党は急遽衆議院議員の鉢呂吉雄氏を代役に仕立てたが、準備不足は否めず、高橋対逢坂の二強対立から高橋独走になったかと思われた。『財界さっぽろ』同号は選挙戦の見通しとしてこう述べた。

過去の参院選比例の得票数を分析していくと、それぞれの政党の固い票、いわゆる基礎票が読み取れる。大雑把にいうと、民主70万票、自民60万票、公明30万票、共産30万票というところ。今回の選挙は候補者が多いことから票が分散され、当選ラインがかなり下がると見られている。80万票あればゆうゆう当選、低い投票率なら70万票で当選かともいわれている。そうした場合、自民と公明が足並みを揃え、きっちりと高橋選挙をやれば、最低でもトータル90万票。やはり高橋が本命だ①

平成15(2003)年は、「自民党をぶっ壊す」と叫んで首相の座をつかんだ小泉純一郎政権の2年目、5月の支持率は48%と就任当初の熱狂こそ収まったが、依然として高い支持を誇っていた。経済金融担当の竹中平蔵氏など小泉政権の屋台骨を支える幹部も続々と応援に参じ、高橋陣営に死角はないと思われた。

この項目は①『財界さっぽろ』2004年4月号38-39p ②相内俊一監修『主役交代 ひと目でわかる北海道政治地図2004』北海道新聞情報研究所・2004 ③北海道新聞連載<乱 知事選> ④逢坂誠二『町長室日記─逢坂誠二の眼─』柏艫社・2004等参照

薄氷の勝利

こうして迎えた平成15(2003)年4月13日の知事選挙投票日、結果は次の通りとなった。

高橋氏と鉢呂氏の差はわずか6万2086票。「最低でもトータル90万」という下馬評からは期待外れの結果と言える。磯田・伊東・酒井の無党派3候補の合計は96万7289票で、明らかに民意は非既成政党であった。

  • 高橋 はるみ 798,317 
  • はちろ 吉雄 736,231 
  • いそだ 憲一 428,548 
  • いとう 秀子 371,126 
  • 酒井 芳秀 167,615 
  • 若山 俊六 142,079 
  • 上野 憲正 32,119 
  • 山田 得生 28,190 
  • つづき 利夫 21,521 

①北海道選挙管理委員会>平成15年執行北海道知事・北海道議会議員選挙結果 https://www.pref.hokkaido.lg.jp/hs/senkyokankeidate/114087.html

磯田が走り鉢呂が抜く

この混沌とした選挙事情を分析した、小樽商科大学相内俊一教授の監修で、世論調査を行う北海道新聞情報研究所が編集した『主役交代─ひと目でわかる北海道政治地図2004』という本がある。北海道の平成14(2002)年の統一地方選挙と2003年の衆院選、2004年の参院選を分析したもので、投票日の40日前、20日前、1週間前、そして投票日の出口調査のデータによりこの時の知事選を詳しく分析している。

投票日40日前の世論調査は、①磯田、②鉢呂、③高橋、④伊東の順だった。平成8(1996)年に崩壊した自社連立政権による既成政党への不信感はこのときも根強く、与野党の知事候補擁立劇の昏迷に対して磯田氏は「脱政党」を掲げ、無党派はもちろん、自民党支持者に民主党支持者も取り込んで大きく支持を広げた。3度目の挑戦で名前が広く知られているはずの伊東氏の伸び悩みも、さまざまな政党を渡り歩いた同氏への不信感があったのだろう。

磯田氏の伸長は驚きを与えたが、ここから自民・民主の組織力による巻き返しが起こり、高橋・鉢呂氏が浸透していく。磯田氏は無党派層からの圧倒的な支持を得ていたが、政党支持層が高橋・鉢呂氏に回帰して失速。投票日20日前には、①鉢呂、②高橋、③磯田、④伊東となり、鉢呂氏がトップに躍り出た。高橋氏は前回よりも浸透したが、3ポイントの上積みでしかない。

そして投票1週間前の世論調査では、①鉢呂、②高橋、③磯田、④伊東の順となった。しかも高橋氏は「自民支持層からの支持が2 回目の52 %から47 %に目減りし、さらに無党派への浸透も停滞気味で、鉢呂に比べて明らかに勢いに欠けていた」。平成15(2003)年統一地方選挙は、直前まで鉢呂北海道知事誕生の趨勢だったのである。

『主役交代─ひと目でわかる北海道政治地図2004』64p

この項目は①相内俊一監修『主役交代 ひと目でわかる北海道政治地図2004』等参照

起死回生の一打

しかし、結果は承知の通り高橋はるみ氏の勝利である。勝敗を分けたのは、公明党の動向だった。公明党は平成11(1999)年より自民党と連立政権を組んでいたが、公明党道本部も高橋はるみ擁立に違和感を覚え、自主投票を検討していた。しかし、どういう政治力学が働いたか分からないが、投票日のわずか6日前の4月7日になって高橋支持を決定した。前書はこの結果を次のように分析している。

知事選のキャスチングボートはだれが握っていたのか。自民支持層から高橋に向かった票は5割と低く、残りの半数が他候補へ向かった。コア屠でも同じ現象が起こっていたように、自民党は組織の動きが鈍く、最後まで迷走し続けた。それをカバーしたのが道内で28万票(2001年参院選)とされる公明党だ。

公明党道本部は自民党の高橋推薦過程への不信感などで自主投票を模索していたが、選挙戦の終盤に、連立与党の枠組みを重視する中央に配慮して「推薦」よりも弱い「支持」を決めた。公明支持陪で高橋に投票した人の割合は65%と一枚岩の結束力を見せつけ、自民支持層との実力差がくつきり出た。期待の自民票が投票日にもさまよった高橋にとって、約11 万の公明票は文字通り、起死回生の一打となったのだ①。

不人気の自民党候補高橋はるみ氏を知事に押し上げたのは、公明党の力だったのである。

こ①相内俊一監修『主役交代 ひと目でわかる北海道政治地図2004』69−70p

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