最終答申への不満
アイヌ民族が旧土人保護法に代わる新法を提言したのは、昭和59(1984)年5月のウタリ協会総会である。それから12年の歳月が経過し、ようやく新法制定のために設置されたウタリ有識者懇の最終答申は、アイヌ民族が求めてきたものとほど遠いものだった。
新法制定要求の核心にあった民族自決権は、「我が国におけるアイヌの人々に係る新たな施策の展開の基礎に置くことはできない」と一刀両断にされ、わずかに日本の多様な文化の一つとしてアイヌ文化を振興するものとなった。
この答申を当のアイヌ民族はどう受け止めたのか。平成8(1996)年4月1日に最終答申が梶山官房長官に提出されると、ウタリ協会は16日に理事会を開催して対応を協議し、次の対応を決めた。
4月16日、理事会を開催し、有益者懇談会報告書の評価と今後の対応について協議した結果、当協会が求めてきた要望に応えるものではなかったが、新しい立法措置の必要性を求めていることは高く評価できるので、全会一致でこの報告書を受け入れることに決定した。①
ウタリ協会理事会は、内容よりも新法成立という事実を取ったのである。当然のこととして執行部の決定に対し5月に行われた総会では批判が相次ぐ。
過去に対する謝罪の文言が無いこと、社会的、経済的格差の是正のための過去の補償や賠償の観点からは言及されていないので今後盛り込むように進めて欲しい(札幌支部多原氏)
アイヌの委員がいない答申の感をもった。アイヌの先住権は北海道に限られるものではない。文中には、アイヌ民族とはっきりとした明記がなされていない。アイヌの歴史を近代化との関係によってのみ説明しているが、経済社会や文化の破壊の記述が曖昧である。(阿寒支部秋辺氏)②
総会を取材した北海道新聞は「新法が策定段階で答申よりさらに内容が後退するようなことがあれば、不満は爆発しかねない」と報じた③。
①北海道ウタリ協会機関誌『先駆者の集い』(第70号)平成8年7月25日・11p
②同4p
③1996/05/17 北海道新聞朝刊全道(総合) 3p
村山政権の瓦解
国民的大作家司馬遼太郎氏を加えてウタリ有識者懇が立ち上がったときの期待感に比べ、拍子抜けとも言える最終答申の背景には、村山政権の激変があった。
平成6(1994)年6月30日に社会党の村山富市議員を首班とする自民・新党さきがけ・社会党の連立政権が成立した。資本主義の発展を党是とする自民党と資本主義を否定して社会主義への移行を主張する社会党。イデオロギー的に対立する両党の連立は支持者に強い不興を買った。北海道では2区の自民党衆議院議員今津寛氏がこの連立に抗議して離党する。
水と油を同じ袋に入れた政権の運営は困難を極めた。平成7(1995)年1月17日に阪神淡路大震災、3月20日に地下鉄サリン事件と重大事件が立て続けに起こり、村山政権の危機管理能力が厳しく批判された。阪神淡路大震災では自衛隊の出動が遅れたのは自衛隊を違憲とする社会党のせいだと保守派が怒り、サリン事件でオウム真理に破防法を適用すると破防法に反対していた革新派が怒った。
平成7(1995)年7月23日に第17回参議院選挙が行われる。社会党は議席を25減らして獲得議席16にとどまる壊滅的結果となった。与党で自民党と新党さきがけは共にわずかだが議席を増やしているので、国民の批判は社会党に集中したかたちである。
参院選敗北を機に社会党では解党とリベラル新党結成の議論が高まり、政権与党としての足元はぐらついた。選挙後、村山内閣は大幅な内閣改造を行うが、浮揚にはほど遠かった。
政権与党の一角である新党さきがけでは、代表幹事である鳩山由紀夫議員(北海道4区)が横路孝弘議員(北海道1区)らと後に民主党となる新党構想を画策。これが現実味を帯びるにつれ、村山首相の社会党内での求心力は急速に失われていく。
平成8(1996)年1月11日、ウタリ有識者懇第8回会議の翌日、村山首相は辞意を表明し、同日自民党の橋本龍太郎議員を首班とする内閣が成立した。内閣官房長官も自民党の梶山静六議員となった。
新官房長官の暴言
このような政変がアイヌ新法議論に影響を与えないはずがない。舞台裏で何があったのか、滝口亘氏の『アイヌ文化振興法成立私史』をみてみよう。
平成7(1995)年8月8日の内閣改造で五十嵐広三氏に代わって官房長官になったのは、野坂浩賢議員(鳥取選挙区)である。12月19日に野村理事長、笹村副理事長、佐藤事務局長と新法制定と来年度予算について陳情した場で野坂官房長官からこんな発言があったという。
「アイヌが先住民族で、我々(和人)が後発民族ならば、アイヌは我々より偉いことに。そんなことより、同化は無理なんですか」①
アイヌ新法制定に向けた10年を超える議論を御破算にする発言で、滝口氏はすばやくマスコミに手を回して問題発言として報道されることを防いだが、ウタリ有識者懇を主宰する官房長官の交代が懇談会の議論にも影響を与えたことは想像に難くない。
なおウタリ有識者懇設置に尽力した池端清一議員は、衆院災害対策特別委員長として北海道西南沖地震の対応に当たった経験を買われて国土庁長官兼阪神淡路大震災担当大臣に起用され、与党アイヌプロジェクトチームを離れていた。
ウタリ有識者懇の議論と並行して法案に向けたアイヌ施策の具体化も進行していく。
1997年(平成9(1997)年)の正月を超えると、委員の声や事務方の話の端々には「アイヌの先住性の定義は難しい」との噂が聞こえはじめてきた。その噂を総合すると、それは89年に政府が内政審議会に設置した<アイヌ新法問題検討委員会>の議論の蒸し返しの様相が感じられる。
「アイヌだけが日本列島の先住民との学説は成り立たない」「アイヌが先住民だとすると、和人の先祖や琉球の人たちも先住民族である」というのが、これまでの政府・官僚の主張であり、1989年のアイヌ新法問題検討委員会の帰結であった。この論理のカベを有識者懇談会は超えることが出来るのか。②
アイヌ民族の先住性の法による承認は、新法制定運動の一丁目一番地である。懸念した滝口氏は、北海道大学文学部の吉崎昌一教授(当時は静修女子大教授)と国立民族学博物館の大塚和義教授の協力を得て、アイヌ民族の先住性を論述した『有識者懇談会の審議にあたってのお願い』と題した要望書を作成し、萱野参議議員を通して、ウタリ有識者懇の伊藤座長に手渡した。③
①滝口亘『アイヌ文化振興法成立私史-政策秘書のノートから』2011・35p
②同38−39p
③同40p
鈴木宗男議員の台頭
この後、橋本内閣が成立すると滝口氏の意見書は意味を失う。滝口氏は環境の変化についてこう書き残している。
総理や官房長官を把握しての政治権力、よしんば、それが少数与党であっても、その権力は絶大である。そのような権力掌握の下での与党PTは、少なからず社会党が主導権を握っていた。しかし、橋本政権以降、PTの月1回開催も反故になり、自民党はPTの開催に応じることなく、もっぱら官僚との水面下での調整作業を先行させている模様であった。与党PTは事実上の開店休業となった。
社会党のアイヌ特委を仕切ってきた池端は、第一次橋本内閣で国土庁長官に就任した。また、事務局長の山口は社会党の党改革を不満として新社会党を結成した。このため、アイヌ特委は委員長に佐々木(衆・北海道2区)、事務局長に竹村(参・北海道選挙区)が代わった。自民党もまた与党アイヌPTの座長であり、自民党のウタリ対策委員長の高橋が政界を引退、後任には鈴木宗男(北海道北)が就任した気配である。①
社会党がアイヌ新法問題から外され、この問題での与党の中心人物に浮上した鈴木宗男議員を中心に自民党と官僚が水面下でまとめたものが、ウタリ有識者懇最終報告書であるというのである。
野村理事長の退任
ウタリ有識者懇がアイヌ新法制定につながる最終報告書を梶山静六官房長官に提出したのは平成8(1996)年4月1日だが、この1カ月後の5月16日に行われたウタリ協会総会では理事長の交代があった。国連総会でアイヌ民族を代表して演説し、新法制定運動を牽引してきた野村義一理事長が退き、笹村二郎副理事長が新理事長に選ばれたのである。
それは決して勇退ではなく、次のような舞台裏があったと翌日の北海道新聞は伝えている。
信じられない交代劇だった。総会での役員改選後に別室で開かれた新理事会で、笹村二朗氏が候補に名乗り出ると、野村氏は「あと一年だけはやらせてほしい」と理事たちに訴えた。
しかし、結果は再選を信じていた野村氏を裏切った。総会での引退あいさつで同氏は「健康も十分だったのに。投票の結果、私は負けたのです。念願の新法を制定してもらうようお願いします」と声を震わせた。
総会は「(新理事長を)承認しない」「会員だって選ぶ権利がある」という批判の声と、笹村新理事長を承認する拍手が入り交じり、会場は騒然とした雰囲気に包まれた。②
新理事長の笹村二朗氏は、昭和9(1934)年、帯広市出身で建設会社笹村組の社長。平成7(1995)年から帯広市議を務めた。昭和55(1980)年にウタリ協会の理事となり、昭和63(1988)年に副理事長となった。
帯広は鈴木宗男議員の地盤である。この交代劇について滝口氏はこう書いている。
5月の総会では、野村に代わって笹村副理事長が理事長に選任された。野村VS笹村の交代劇は、総会開会の直前まで決着がつかず、前日の夜半、全理事の投票により、しかも僅差での決着だったという。
新理事長に就いた笹村は十勝アイヌの重鎮で、アイヌではただ一人(?)の市議会議員。そしてなによりも鈴木宗男衆議の帯広後援会の幹事長を務め、政治的にはウタリのなかの第一人者である。今後の新法制定作業には、鈴木自民党アイヌ問題小委員長と笹村ウタリ協会会長による新たな政治の構図が浮かびあがってくる。③
野村理事長は、国連の権威を背景に新アイヌ法制定運動を推進してきた。平成6(1994)年のウタリ協会総会で野村理事長は、新法制定に向け腰の重い政府に対して「11月までに政府が回答しなかったり、つくらないという場合には、協議臨時総会を開催し、日本に、世界に向かって重大な発表をする」と発言したこともある。
アイヌ新法そのものは、平成6(1994)年の自社連立政権という政変から生まれた産物で、自民党は一貫して制定に消極的であった。国連の少数民族作業部会が、土地や資源の権利を含む民族自決権を先住民族固有の権利として確立しようとする中で、政権党である自民党が、これを我が国の法的秩序への挑戦と捉えて蓋をしようと動いたことは容易に想像できる。そのための直接的な工作がこの理事長交代劇であったのではないか。
平成13(2001)年7月2日、鈴木宗男議員は、日本外国特派員協会主催の講演会で「私は(日本は)一国家一言語一民族といっていいと思う。北海道にはアイヌ民族というのがおりまして、嫌がる人もおりますけれど、今はまったく同化されている」と発言して問題となった④。同日、平沼赳夫経済産業相が札幌市内のホテルで開いた自民党の中川義雄参院議員のセミナーで講演し、「日本は単一民族」と発言した⑤。
7月10日、笹村理事長は記者会見を開いて、平沼経済産業相には質問状を送るものの、鈴木議員には抗議しない考えを表明した。この対応に批判が高まり、8月6日、ウタリ協会は理事会を開き、笹村二朗理事長ら四人の役員の解任動議を賛成多数で可決する⑥。笹村理事長と鈴木議員の強い繋がりを感じさせる事案であった。
①滝口亘『アイヌ文化振興法成立私史-政策秘書のノートから』2011・54p
②1996/05/17 北海道新聞朝刊全道31p
③滝口亘『アイヌ文化振興法成立私史-政策秘書のノートから』2011・71p
④2001/07/03北海道新聞夕刊全道14p
⑤2001/07/03北海道新聞夕刊全道14p
⑥2001/08/06北海道新聞夕刊全道11p
アイヌ文化振興法の成立
滝口氏の「アイヌ文化振興法成立私史」に戻るが、橋本政権となりアイヌ政策の主導権が自民党に移るにともに、滝口氏が秘書を務めた萱野茂議員との距離も生まれたという。
ときたま萱野を訪れる鈴木宗男の姿が目に付く。旧社会党北海道の議員は、政策ごとでは萱野との単独での話合いはなかった。必ず「滝さんも一緒に」と先方から声が掛かるのが通例だった。しかし自民党の宗男先生にすれば、重要な協議は議員同士の差しの協議であり、秘書ごときの同席はおこがましい限りなのかもしれない。またその際、萱野から同席を求められることも無かったから、宗男先生との話の内容は全く不明であったし、萱野が宗男先生との用談内容を開陳することもなかった。ここでは何が話されたのか、私には全く不明である。①
平成9(1997)年5月14日、旧土人保護法に代わるアイヌ法制として「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(アイヌ文化振興法)が制定されるが、野村理事長時代にこれだけは譲れないとして求めていた先住民族宣言はもとより自立基金に対する条項も無かった。
5月16日に開かれたウタリ協会の総会では、笹村理事長は新法の内容について説明した後、協会としてアイヌ文化振興法を受け入れることを決定した3月22日の理事会を取り上げた北海道新聞に掲載された島田裕永道開発庁アイヌ関連施策推進室長の「先住性を法律に入れることは技術的に難しい」とのコメントに触れ、修正を求めるファックスを送ったと説明した②。形だけの抗議と言うべきだろう。
①滝口亘『アイヌ文化振興法成立私史-政策秘書のノートから』2011・90p
②北海道ウタリ協会機関誌『先駆者の集い』(第74号)平成9年12月20日・2p
アイヌ文化振興・研究推進機構の発足
実際に制定されたアイヌ文化振興法の主旨は、アイヌ文化を振興するために指定法人を設立するというもので、昭和59年に提起されたアイヌ新法の構想とは似ても似つかぬもの。有り体にいえば、「公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構」という新たな天下り法人設置のための根拠法に過ぎなかった。
当初、14名の理事のうちアイヌ関係者は4名であったが、強いクレームにより同数になった。しかし、トップの理事長は佐々木高明前国立民族学博物館館長である。さらにアイヌ民族がポストを要求していた機構の運営の要となる事務局長も道環境生活部次長の天池智裕前となった。
同機構の理事と評議員は下記の通りである①。
- 秋田春蔵(シャクシャイン記念館館長、道ウタリ協会理事)
- 飯田昭市(登別アイヌ語教室講師、道ウタリ協会副理事長)
- 岡部三男(道経済連合会専務理事)
- 佐々木高明(前国立民族学博物館館長)
- 笹村二朗(道ウタリ協会理事長)
- 沢井進(阿寒湖ユーカラ座副団長、道ウタリ協会副理事長)
- 立松和平(作家)
- 谷本一之(道立アイヌ民族文化研究センター所長、元道教大学長)
- 永井信(道自治研修所講師)
- 中本ムツ子(アイヌ無形文化伝承保存会理事)
- 藤本英夫(道埋蔵文化財センター理事)
- 間見谷喜昭(旭川アイヌ協議会会長)
- 平工剛郎(道地域総合振興機構常務理事、元道開発庁計画監理官)
- 田村誠(私立大学退職金財団常務理事、元文化庁文化財保護部長)
新たなアイヌ法制に対するアイヌ民族の不満は強かったのだろう。機構は平成9(1997)年7月1日から業務を開始したが、佐々木理事長は、1週間後には理事長と専務理事は、アイヌ民族側に相談なく事業内容の協議を東京で行ったとして辞任要求を突き付けられた②。
このような波瀾はあったもののアイヌ文化振興法のもと、しだいにアイヌ民族が自決権を要求する場面は影をひそめていく。再燃するのは高橋はるみ道政が2期目に入ってからで、その動きが北海道百年記念塔解体の動きと連動するのだが、そのことは章を改めて検討したい。
①1997/05/15北海道新聞朝刊全道 30p
②1997/07/09北海道新聞朝刊全道 31p
